4 選択

 翌日、警察署の地域課の部屋。

「え? ビラ配りですか?」

「そうだ」


 真理子と優華の二人が上司に呼ばれ、机越しに彼と向かい合って立っていた。
 上司の言葉に真理子はきょとんとした表情で訊き返すと、彼は穏やかな笑みを浮べて一つ、頷いた。


「いやな、そろそろ例の事件から一ヶ月が経つだろ? そこで情報提供のビラ配りを君達にお願いしたいんだ……と、言うか……」


 ふと、上司がバツの悪そうな表情を見せると、ちらちらと優華を見た。


「本当は久保寺君は当事者の一人と言っても過言ではないから、断ろうしたんだが……署長が当日はマスコミの取材があるから、カメラ映りのいい女の子にぜひとも出て欲しいって言うもんでな……」

「あたし達、婦警はマスコットじゃないのに……」


 真理子があからさまに嫌悪を示す表情を浮かべるとちらっと隣の優華を見た。


「ま、上からの命令なんだから、あたしは別にいいですけど……優華は?」

「えっ、私は……」


 真理子に振られた優華ははっと息を小さく飲み込み、驚いた小動物のように目を丸くして真理子を見た。そんな反応に真理子は小首を傾げた。


「どうしたの? 嫌だったら嫌って言えば……」

「い、いいえ。大丈夫です。私もやります」

「そうか!」


 優華の答えに上司の顔がパッと花開いたように明るくなった。そしてすくと立ち上がると手元の書類を束ねた。


「では、署長にそう言っておく。まあ、マスコミが帰ったら君達もすぐに自由になれるように言っておくよ」


 そう言うと上司は書類を持っていそいそと部屋を出て行った。

 少し猫背にして部屋を出ていく上司の後姿に真理子は思わず吹き出した。


「中間管理職の悲哀ね……」


 真理子は軽くそう呟くと一つ息をつき、ちらっと腕時計を見てむんと1つ背伸びをしながら自分の席に戻っていった。


「もうこんな時間か……そろそろ外回りに行ってこようかな」


 外回りと聞いて一緒に真理子の席のそばにある自分の席に戻っていた優華の肩がぴくっと震え、同時に自分の心にズキッと刺したような痛みが走った。


「……えっ……外回りに……行くんですか?」

「……そうよ」


 思わず優華が発した言葉に真理子はきょとんとした表情を見せた。


「何かあった?」

「いえ…………」


 消えるような否定の返事と顔を真理子から背ける優華。真理子は小首を傾げたままじっとそんな優華を見つめた。


「……優華、やっぱりビラ配りの話、断ったら?」

「えっ?」

「だって、あの事件のショックがまだ抜けていないみたいだし」


 真理子は優華を見ながら乱雑に散らかる自分の机の上を適当に整理し始めた。それが彼女が外回りに出る前の行なういつもの「儀式」のような物であった。


「事件の以降、優華はなんだかそわそわして落ち着かないし、何となく元気もないし……」

「だ、大丈夫です!」


 心配げに見る真理子に優華は不意にきゅっと胸の中を締め上げられるような感覚を覚えた。
 そして、その感覚を打ち消そうとするように大きな声でそう言った。

 その大きな声に部屋が一瞬、しんと静まり、真理子もぎょっとした顔を見せた。 


「す、すみません」


 はっとした優華が顔を赤らめて俯いてぽつりと謝った。
 そんな俯く優華に真理子がひょいと顔を覗き込んだ。

「もしかして優華……あの事件以外に何か……あったんじゃ……」


 優華は一瞬心臓が止まりそうなほどの大きな衝撃を胸に感じた。


「なんでもありません! 心配いりませんっ!」


 真理子の言葉を打ち消すように再び大きな声でそう言うと同時に優華は彼女に背を向けてばたばたと部屋を出て行った。


「はあ……」


 地域課のそばにある女子トイレ。その個室に優華は駆け込んでいた。
 彼女はドアを締め、鍵も閉めると蓋を閉じた洋式便座の上にへなへなっと座り込んだ。


(先輩……勘が鋭い……)


 便器に座り、ぼんやりと天井で輝く蛍光灯を見上げながら優華はそんな事を思った。

 自分ではこの一ヶ月間、レイプ前と同じように仕事をし、同じように過ごしているつもりだった。
 しかし、いつも仕事で顔を合わせ、なおかつコンビを組む先輩、真理子には変わったように見えているようだった。


(……やっぱり……打ち明けた方がいいのかな……)


 浅い溜息をついて優華はそんな事を思った。この一ヶ月間で何度も思った事だがその度に、


(……できない。そんな事をしたらあいつ等は絶対に……)


 男4人、特に前田の冷静な顔が浮かび、そんな思った事を抑え付け、実行に移さないようにしていた。今度は深く大きな溜息を思わず、ついてしまった。


(…………なんだか……私、あいつ等を守ってあげているみたい……)


 本当は4人の犯罪者を捕まえる事が警察官である自分の仕事であり使命。しかし、必死になって4人を匿い、その存在を警察にバレないようにしている。

 そんな警察官としての自分と矛盾を感じ、一つ溜息をつくと制服の上着の右ポケットに手を入れてその中の物を取り出した。

 優華の手の中にある物。それは前田から手渡された睡眠導入剤入りのパケットだった。


(……これを先輩に飲ませる……そうしたら…………)


 昨日これを手渡す時に前田は真理子を自分と同じようにして自分の精神的な傷を癒させるとはっきり言った。
 つまり、今自分の手の中にあるこの薬で真理子をレイプしようと言うのだ。

 婦人警官である自分が先輩、しかも婦人警官をレイプする手助けをする。

 犯罪者を見てみぬ振りをするのは場合によってはまだ許されるのかもしれない。でも、明かに犯罪である事を止めるどころか助けるのは警察官以前に人間としては許される事ではない。


(…………できない。そんな事。私は警察官なんだから)


 うんと自分を力付けるように頷くと優華はすくと立ち上がり、便座の蓋を開けた。
 そして中味をそこに流そうとパケットの閉じているスライダーを開けようとしたその時、

「えっ?」

 突然胸のポケットの中が震えた。優華はびくっと肩を振るわせ手にしたパケットを再びポケットに押しこむと、胸のポケットから携帯電話を取り出した。

 液晶画面には新着メールの文字。誰からかは着信音が一切鳴らない知らせでわかった。

 優華は早速そのメールを開封した。


「『今、警察署からあの先輩婦警さんが出てきたみたいだけど、アレ飲ませましたか? 前田』……!」


 短い文章だが、それを読んだ優華は愕然とした。

 警察署にあの4人が張り込んでいる。そして優華や真理子が出てくるのを見張っている。

 いつまでも監視をされ続ける。自分も真理子も逃れることは出来ない。

 優華は愕然とした表情のままで閉めた扉に背中をつけるとそのままズルズルとしゃがみ込んだ。


「そんな……」

 力が抜けた手から携帯電話がすり抜け、タイル張りの床の上に落ちた。
 かしゃん、と言うその音がトイレ中にやたらと大きく響く。


(……もう……もう…………あいつらと切れない……あいつらに従うしか……)


 トイレの床にしゃがみ込み、虚ろな目で向かい合うトイレの壁を見ていた。壁を見ながらも何も考える事が出来ない。

 真っ白な頭で呆然としているとふと、床に落とした携帯電話に目をやった。優華はそれを拾い上げるといつもよりもぎこちない手で優華に来たメールの返事を押した。


「『まだです。いつの間にか外回りに出たみたい』」


 そしてそう打つと送信をし、送信完了を確認すると通常の画面に戻した。

 そこに浮かぶ今の時間と日付。それを見ると優華は大きく溜息をついた。


(明々後日で一ヶ月か……)


 そしてそう思うと携帯電話を閉じてそっと制服のポケットに仕舞いこんだ。
 優華はこつんと自分の後頭部をドアに軽くぶつけ、天井を見上げた。

 事件から一ヶ月。その日にビラ配りの為に一ヶ月振りに制服を着て外に出る。
 その時は真理子も一緒。もしかするとポケットの中にあるパケットの薬を飲ませるチャンスなのかもしれない。

 ふと、そんな事を考えた優華は自分の考えを否定するように首を左右に振った。


(何考えてるの……薬を捨てるのよ……薬を……)


 優華は再びポケットからパケットを取り出し、蓋が開いたままのトイレにそれを流そうとした。
 しかしそれ以上は手が動かない。まるで硬直したかのように便器の上でパケットを持つ手が震えていた。

 きゅっと下唇を噛んだ優華はすっと手を便器から離し、パケットをポケットに入れた。

 結局、さっきまで捨てようとしていた薬を優華はそれをトイレに流す事は出来ず、しゃがみ込んだままで絶望に打ちひしがれた。

 やってはいけない。でもやらなければならない。


(……私は警察官……だけど…………従うしかない…………)


 もし、自分が警察官でなければ、いや、婦人警察官でなく普通の女性、あるいは男性だったらこんなにも苦しく、自分の仕事と使命に挟まれておどおどと生活したりこんなにも絶望する必要もなかった。

 そう思うと優華の口からぽつりと言葉が漏れてきた。


「婦人警官なんかに……なるんじゃなかった……」


 4日後。


「……久し振りだな……」


 警察署の女子更衣室で優華がロッカーの前に座って外回りの準備をしていた。

 ロッカーの中の制帽を取り出して埃を軽く叩き、ショルダーバッグの中身を確認して忘れかけていた感覚を取り戻そうとしていた。

 装備品の確認を終えるとロッカーの奥に置いてある一足のロングブーツを取り出した。
 優華はその埃を払おうとしたが、その手を止めてじっとそれを見つめた。


 あの日、この上に白い白濁液が飛び散り、前田が撫でたり擦ったり舐めたりしたロングブーツ。
 普通のハンプスだったらあんなに酷いレイプを受けなかったのかもしれない。


 そんな事を思ったが優華はふっと一つ息を吐くとロッカーにある小さな布でブーツを拭い、サイドのジッパーを開けてその足にゆっくりと穿かせた。

 両足にきゅっと軽い締めつけ感が走る。以前ならこれから外回りだと気合いや警察官の使命感が沸き出てきた感覚だが、今は――。

 

「優華、準備は出来た?」

「あ、先輩」


 ロングブーツを履き終えたと同時に真理子が更衣室に入ってきた。
 優華は埃を払った制帽、肩に掛かったショルダーバック、両足のロングブーツとすっかり
準備の整った出で立ちで立ち上がって真理子を迎えた。

 一方で真理子は制服姿ではあるが何の準備も出来ていない様子。
 すっかり準備の整っている優華を見て真理子は僅かにバツの悪い表情を見せた。


「ちょっとごめん……色々立てこんでて……」


 真理子は自分のロッカーに立つと準備を始めた。しかし、どうも動きが緩慢でいつもの真理子っぽくない。


「あの……先輩、体調が悪いんですか?」

「え? いや、昨日当直だったのよ……それでさっきまで仮眠していたら寝癖がついて……それだけじゃないんだけどね……」


 そんな事を言いながら真理子は時折あくびをしながらロッカーからロングブーツや制帽を取り出していた。そして、ふと準備をする手を止め、ロッカーの中にある私物のバッグの中から財布を取り出した。


「ねえ、悪いけどコーヒー買ってきてくれない? 砂糖ミルク抜きの濃いの」

「あ、はい。いいですよ」


 優華は真理子から百円玉を受け取ると外回りの格好のままで更衣室を出てそばにある自動販売機コーナーに向かった。

 足元のロングブーツが足首の動きと共にぎしぎしと皮同士の軋む音を立てている。
 普段プライベートではロングブーツを穿かない優華にとって足の軽い締めつけ感と共に今仕事をしているんだと感じさせる音である。

「……あっ」

 自動販売機のコーナーにたどり付いたその時、胸の携帯電話が震えた。優華は携帯電話をすぐに取り出さずに腕時計を見た。


(……九時半……)


 大抵、この時間前後に一日の最初のメールが前田から入る。優華はごくっと唾を飲み込むと胸ポケットの携帯電話を取り出し、届いたメールを読み始めた。


「『今日で一ヶ月。そろそろ外に出る頃では? そうなったら制服姿の婦警さんにお会いしましょう。薬の方はどうですか? 前田』」


 メールを読み終えた優華はふと目の前にあるコーヒーの自動販売機を見た。


(……薬……)


 この販売機は缶コーヒーではなくカップのコーヒーの自動販売機。薬を入れるには最高の状況である。

 優華は手にした百円玉を機械に入れ、砂糖とミルクの調整ボタンを押してホットコーヒーのボタンを押した。


(入れるのなら今……でもそんな事……)


 コーヒーが入れられる間、機械の音を耳に入れながら優華の中で薬を入れる入れないのせめぎあいが続いた。


(……ここで入れなかったら当分そんな機会はない……あの男達に恨みを買わずに……でも…………)

 コーヒーが入れられて完了を示す音が鳴るまでの物凄く長い20秒程度の時間。
 その時間の中で優華は薬とコーヒーと真理子を思いながらせめぎ合わせ続けていた。

 そして。コーヒーが入った事を示す音と扉が開いた瞬間、彼女はゆっくりと頷いて湯気を上げるカップを手にした。


「先輩」

「ああ、ありがとう」


 コーヒーを持った優華が更衣室に戻り、湯気の立つコーヒーを準備の整えた真理子に手渡した。
 紙コップの中の黒く熱いコーヒーは香ばしい香りを立て、僅かに真理子に残っていた睡魔を吹き飛ばす。

 真理子は紙コップに口をつけ、ずずっとそれを一口口にした。


「はあ〜、苦くて眠気が吹っ飛ぶわ……でも、いつもより少し苦いかな……」


 そう言いながらコーヒーに息を吹きかけながら真理子はそれを飲んでいった。

 そんな真理子を優華はとても正視ができず、衣室の片隅にある鏡に映った自分の姿をじっと見ていた。

 鏡に映る自分の顔は後悔や罪悪感や割り切った表情や様々な感情が浮かび、なんだか自分の物ではないように見えた。

 優華はふうと一つ溜息をつくと制服の上着のポケットに手を入れ、その中にあるゴミを手にしてそっと足元のくず入れに入れた。

 それは中味が空の透明なパケットだった。

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