3 誘導
午後5時。
「優華」
「あ、先輩」
更衣室で制服から私服に着替えていると私服姿の真理子がぽーんと優華の肩を跳ねるように叩いた。
仕事が終わって軽く浮かれ気味。にこにこと笑いながら優華の顔を覗き込んだ。
「これから暇? ちょっと歌いに行かない?」
「あ……すみません。今夜は予定が……」
申し訳なさそうに、しかしどことなく動揺したような表情を優華が浮べて言う。真理子は訝しげに小首を傾げた。
「予定? 誰かと会うの?」
「いえ……あの…………」
真理子が突っ込んで訊いて来ると優華の様子は動揺甚だしい物になった。
そんな優華に真理子はふっと全てお見通しと言いたげな笑みを見せた。
「……普段付き合いのいい優華があたしに言えないような予定で誘いを断るか……まあ、いいわ」
そう言うとポンともう一度優華の肩を叩いた。
「また、都合のいい時になったら、行こう。じゃ、お疲れさま」
「…………」
真理子が軽く手を振って更衣室を出ようとしたその時、
「……せ、先輩!」
「ん? 何?」
思い立ったように優華が真理子を呼び止めた。真理子は立ち止まると振り返って優華を肩越しに見た。
「……今日の……巡回…………何もありませんでしたか?」
「巡回? 別に何も。物騒な世の中になったねえって世間話をする人が増えた程度かな? ……どうかした?」
「いえ……お疲れさまでした」
「お疲れ」
軽くそう言うと真理子は黒のレザーコートを蛍光灯に輝かせながら颯爽と更衣室を後にした。
優華はそんな彼女の後ろ姿を見ながらふと、溜息を一つつき、そっとロッカーの扉に付いている鏡に自分の顔を写した。
(何も……なかったか…………私よりも先輩の方が奇麗なんだから……あいつら……)
そこまで思った瞬間、鏡に自分の思った事の続きが映った。
「な……何よあなた達!」
手錠をかけられて拘束され、前田、松永、吉田、野村の四人に囲まれた真理子が制服を肌蹴させられ、優華よりも豊かなバストをブラから引き摺り出されている。
四人はブーツを履いたままの真理子のスカートをたくし上げ、パンストを引き千切り、黒いパンティを引き摺り下ろし……。
「いやっ! やめなさい! 私は警察官よ! そんな事して……やめっ、やめなさいっ! いやっ! ああああっ!! んんんっ!!!」
鏡に映った映像と共に真理子のそんな悲鳴まで優華の頭の中に響いた。
そんな頭の中で展開される地獄のような光景に優華は驚きでびくっと肩を振るわせ、妄想とも言えるような想像を振り切ろうとぶんぶんと頭を振った。
(な、何を考えてるのよ! 先輩まで私みたいになんて……)
首を左右に振り、髪を振り乱した優華が再び鏡を見る。
そこには自分の妄想は浮かんでおらず、動揺が表情に浮かび、顔が少し高潮した自分が映っていた。
優華は自分の顔を見ると一つ溜息を吐き、乱れた髪を手櫛で整えた。そしてベージュのコートを着るともう一度息をまとめた吐いた。
「……行くか」
しばらくして、駅前第二駐車場。
冬場の五時半前と言う事もあって薄暮を過ぎた辺りは暗く、街灯の白い光に駐車されたセダンや軽自動車、ワゴンタイプの自動車が車体を輝かせている。
そんな中を優華は辺りを警戒するようにきょろきょろと見渡した。
(黒のフィット……)
ブラウンのハンプスの踵を鳴らしながら駐車場を進み、その中心部に来た。
その時、優華が街灯とは違う横からの強い光に照らされた。
優華は一瞬光の眩しさに目を細めたが、すぐに光に目が慣れて光源の方を見る事ができた。
「やっ、待ってましたよ、久保寺優華巡査」
そこには黒のフィットが止められ、その窓から薄く笑う前田が顔を出していた。
優華はそんな前田に笑みを見せる事なく、厳しい表情で車に近づいた。
「助手席にどうぞ。鍵は開いてます」
前田の言葉に無関心を装うように何の反応も見せずに優華は車の中を覗いた。車内にはメール通りに前田一人しかいない。
「大丈夫。俺一人で来ているから」
警戒心を表に出す優華を安心させるように前田が言うと、優華は一瞬、彼を睨むような厳しい眼差しを見せた。
そして助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。
「じゃ、行きましょ」
優華が助手席に乗りこみ、シートベルトを掛けるのを見ると前田はゆっくりと車を動かし始めた。
「……いつまで、逃げるつもりなの?」
駐車場を出て、街の光の中を車が進んでいるとぽつりと前を見たままで優華が呟いた。
優華の呟きに前田は特に答えようとせずにフッとただ一つ、笑った。
優華は前田の横顔を見た。
「逃げ切れると思ってるの? 警察を甘く見ちゃ……」
「甘く見るか……でも、甘くなかったら、事件から2週間以上経つ今頃、俺達はもうとっくに捕まってるはずだけどなあ」
口元に笑みを浮かべたままで前田はそう言い、自分の顔を見る優華に横目で視線を合わせた。
「しかし、こうして俺達は誰一人捕まってない。婦警さんをレイプした俺達も誰も」
「…………」
優華はくっと喉で言葉を飲み込んだ。前田の余裕のある態度に彼女は飲み込まれそうになっていた。しかし、このまま言われっ放しでいるわけにはいかない。
「……とにかく、自首をして。自首をすれば罪も少しは軽く……」
「俺達は自分から警察に行く事はしない」
前田は再び視線を前に合わせると短くそう言った。彼の言葉に優華は愕然としたようにはっと口を開けたままで前田を見続けた。
「どうして…………」
「自分からやりましたって言うのは弱いヤツのする事。どうしても捕まえたかったら、警察が自力で俺達を捕まえればいい」
そう言うとまた前田は優華をちらっと見た。
「大体、俺達が殺人犯だって事や連続レイプ犯って事、全部知ってるのは婦警さんだろ? 婦警さんが洗いざらい言ってしまえばいいんじゃない?」
「…………」
優華沈黙。口を真一文字に閉めて前田を睨みつけていた。
「……でも……あなた達……私がそんな事を出来ないように縛りつけているんでしょ!」
「これでか?」
軽い調子で前田はポケットの中からひょいとデジカメを取り出した。
「! そっちに渡しなさい!」
それを見た優華ははっとし、カメラを奪い取ろうと手を伸ばした。だが、前田はさっと優華からカメラを遠ざけ、上着の右ポケットにそれを入れた。
「おいおい、婦警さんが人の物を盗ってどうするんだよ。それじゃ泥棒だ」
「くっ…………」
へらっと口元を緩め嘲るように前田が言うと優華は顔をしかめ、デジカメを入れられた優華から一番離れたポケットを睨んだ。前田は笑ったついでにさらに続けた。
「大体、この中の画像は全部CD―Rにとっくに全部焼き付けたから……婦警さんがこれを盗っても無駄だよ」
「そんな……そんな写真で人を脅して楽しいの!」
優華の強い口調と共に彼女の目にうっすらと涙が浮かんでいた。
自首するように説得するつもりが好き勝手に言われている。
なんだか前田に返り討ちに遭っているような感覚を覚え、同時に悔しさも覚えていた。
前田は優華の言葉に首を傾げた。
「脅す……脅しているつもりはない。この写真をネタに捜査情報を提供しろとか、そんな事言ってねえだろ?」
「HPでバラ撒くとか言ったでしょ!」
「HPのネタにできるとは言ったが、それでどうこうしてくれって頼んではないでしょ。婦警さんがこの写真の事を考えて自分で行動を自粛しているだけなんだよ」
「あ…………」
口をぽかんと開け、優華は唖然とした。
確かに前田達は優華のレイプ写真を使って優華に何かをするようにとは一言も言っていない。優華が写真を撮られたと言う事に無限の恐怖を感じ、自主的に口外を禁じているのだ。
そんな唖然とする優華を前田はちらっと見てふっと小さく笑った。
「まあ、安心してください。俺達はこの写真で婦警さんに情報を教えろとかそんな事は要求しませんから。もしそんな事してバレたら婦警さんはクビになって婦警さんじゃなくなるから」
「……な……何が目的なの?」
さっきまでの強い語気とは違い、急に怯えたような弱い調子で優華が訊く。
前田は何も答えずに車のスピードを落し、道沿いのファミリーレストランの駐車場に向かってハンドルを切った。
「俺達は婦警さんと知り合いになってればそれでいい……久保寺巡査みたいなかわいい婦警さんにね」
そして軽くそう言うと車を駐車場の片隅に止めた。
「食事でもしよう。高級フランス料理とかおしゃれなホテルディナーじゃないけど」
前田がそう言うと優華は急に何かに気付いたように辺りを見渡した。
そのレストランは街の端っこにあり、優華の住む警察署そばの女子寮からは相当距離がある場所にあった。
ここから逃げだし、歩いて帰る訳にはいかない。
選択肢のない優華は口を真一門に閉じたまま、何も言わず不機嫌そうにシートベルトを外した。
それから二人はファミリーレストランで夕食を共にした。
前田の顔立ちや雰囲気は優華よりも少し年上のような感じがするせいか2人が1つのテーブルに向き合って食事をする様を怪しく感じる者は皆無だった。
もちろん、方や婦人警察官、方や犯罪者、あるいは方やレイプ犯、方やその被害者とは絶対に見えない。
逆に交際中のカップルのようにすら見えた。
「外に出る予定はないの?」
「今の所は」
「寂しいな……制服姿が見られないしなあ」
そんな他愛のない言葉を交わしながら二人は食事を進めて行った。
優華はその間、何度も「この人はレイプ犯です! 警察に連絡を!」と叫び、自分の手で目の前の前田を拘束できればどれほど楽になるだろうかと考えた。
しかし、そうすれば自分のレイプが白日の下に曝される。それどころかCD―Rに焼き付けた写真も他の人に見られる。
自分で自分の行動を制しているのはよくわかっているが、優華にはそれをする勇気がなかった。
そして、前田はそんな優華の弱みを見透かしているようにとても警察官を前にした犯罪者とは思えないほど堂々と、それどころか悠々と食事をしていた。
(……それでも……私は警察官なの……)
食事をする前田を見ながら優華は自分の都合で犯罪者を悠々とさせている事になんとも言えない屈辱感と無力感を感じていた。
シャリッ。
そんな感覚を打ち消そうとするように優華はテーブルの上のサラダを口にした。
サラダの中のオニオンを噛み締めた瞬間、それが妙に苦く感じられた。
二人は食事を終えると再び車に乗り込んだ。
「……ああ、そうだ」
運転席に前田が乗り込むと何かを思い出したようにポケットからデジカメを取り出し、それを操作していった。
「この婦警さん、知ってます?」
そう言いながら前田は助手席の優華に一枚の画像を映し出したデジカメを手渡した。
「!」
優華はその画像を見てはっとした。そこに映し出されている婦警、それは巡回中の真理子だった。独居老人に話しかけている姿なのか、きちっと制帽を被った顔の下にある顔は笑っている。
厳しく固い印象のある制服に身を纏っているにも関わらず優しく、ソフトな感覚を覚えさせる様子だった。
真理子の姿が自分のレイプを収めたデジカメに収められている。前田達が何を企もうとしているのか。優華には痛いほど分かった。
「お、お願い! もうこれ以上罪を重ねるのはやめて! 婦警の知り合いは私だけで充分でしょ!」
突然の優華のお願いに前田はニヤッと1つ笑って車のキーを回し、ゆっくりと駐車場から車を出した。
笑っただけで何も返事をしない前田を優華は見つめ、動揺した口調で続けた。
「私をレイプした事……ううん、あなた達が殺人犯だって事も言わない。だから……」
「私はこの婦警さんを知っているか訊いただけ。訊かれた事にちゃんと答えろって警察の取調べで言うでしょ?」
「…………」
自分が取り乱した事を楽しんで見ているかのような前田の様子。また前田に手玉に取られた事に気付いた優華は口をへの字に曲げ、俯いた。
何も答えない優華に前田は溜息をついた。
「そっか知らないんですか。じゃ、自分達で訊くしかないのか……」
ぽつっと溜息の後でこぼれた前田の言葉に優華ははっとした。自分達で訊く、それは優華自身の身分の知られ方を踏襲すると言っているように聞こえたのだ。
「……そ、その人は……私の先輩よ……」
「へえ、名前は?」
「…………桜井……真理子」
「年齢は?」
「……確か26くらいだったと……」
「ふ〜ん」
ためらいがちに口を開いた優華を前田はにやっと満足げに口元を緩めた。
車は街から街灯がぽつぽつと並ぶ少し寂しげな道に入っていた。
優華は助手席から三六〇度、辺りを見渡して寂しい場所に車が入っているのに気付くと、すがるような目で前田を見た。
「……ね、ねえ、どこに行くの?」
「…………」
「車を止めて! 降ろして!」
金切り声のような声を上げ、ハンドルを握る前田の腕を掴んだ。
「婦警さん、危ないよ! 婦警さんが事故を誘発させてどうするんだ!」
「どこに行くの!」
「大丈夫。別に他の三人と合流しようとかそう言う事はない。それに、ここで降ろされてどうやって帰るんだ?」
「…………」
前田の言葉に優華は黙り込み、そっと前田の腕から手を離すと大人しく助手席に深くもたれかかった。
それから車はかなりきつい連続した勾配とカーブが続く道を走った。今、自分がどこにいるのか優華は分からない。しかし、街のそばにある山を登っている事は感じられた。
(どこに行くの……この山を越えたら……隣の管轄の住宅地だけど…………)
職業柄、管轄内の地図は粗方頭に入っている。しかし、この車がどこに行こうとしているのか、そしてどこに向かっているのか、全く分からなかった。フロントガラス越しの前の景色は対向車もなくひたすらライトに照らされたアスファルトの道が映るだけ。
そして横を見ると山の中腹辺りに来ているのか、街の明かりが散りばめられた宝石のように広がっていた。
「……この辺だな」
その時、前田がそう呟いてハザードランプを点けると、道の隅に車を寄せて止めた。
「……な、何……」
「いや、ここって夜景が一番奇麗なもんで。デートスポットの穴場ってヤツ」
ふふっと軽く笑うと前田は白い歯を見せながら優華を見た。
優華は前田がふざけた調子で言った事、あるいはまた自分を手玉に取ろうと企んでいると思ったのか、むっとしてぷいと前田から顔を背け、街の明かりの方を見た。
そんな優華に前田は怒るでもなく、まだ小さく笑ったままそっと前を向いていた。
「……そして、ここが婦警さんにとっての思い出の場所なんだよ」
「私の……?」
優華がちらっと前田を見たその瞬間、彼女の頭の中にばっとある画像が突然浮かんだ。
見ず知らずの雑木林、手錠を掛けられた両手首、男四人に取り囲まれた自分。
「は…………あ…………」
優華の肩が小刻みに震え、車内に差してくる街灯の光が優華の顔に浮かんだ汗に輝いた。
優華は頭に浮かんだ画像を抹消しようとしたが、まるで止められないスライドショーを見ているように次々と浮かび続けた。
次々と自分の視界一杯を埋める男達の顔、自分の顔を舐める舌、揉みくだされる制服に包まれたバスト、寒空に露になる乳房。
「いやああっ!」
突然、悲鳴を上げ、両手で頭を抱えた優華は上体を倒して俯いた。そして何かを拒むように首を左右に振った。
それにも関わらず次々と浮かんでくる画像。
乳房にしゃぶりつく男、怒張した男のペニス、口の中にペニスをねじ込まれ歪む顔、顔や制帽に飛び散る白濁液。
次々と襲ってくるフラッシュバックに優華は上体を倒したままで震えた。前田は黙って震える優華の背中を見つめていた。
前田が震える優華を見ながらそう思っている間も優華はフラッシュバックに襲われた。
浣腸を挿入されたヒップ、肛門から噴出して地面に山となった排泄物、ペニスを挿入されて広げられた肛門。
「…………いや…………やめて……」
ぽつりぽつりと優華は言葉を漏らした。その声は震え、涙声のようであった。
2週間かけて閉じた傷跡が開いたように出てくる画像に優華は何もできずにただ震えるだけだった。
脱がされたロングブーツ、下ろされたパンティ、剃られた陰毛、挿入されたペニス、処女膜を引裂かれて流れる鮮血。
優華の口の中に忘れていた生暖かくどろっとした液体の感覚が、陰部や肛門にひりっとした痛みが、手首に手錠が噛む痛みがそれぞれ一斉に甦り、頭の中のフラッシュバックにリアリティが与えられて優華の怯えがさらに酷くなった。
背中を丸め、震える優華に前田がそっと手を伸ばした。
「ひっ!」
背中に手が震えただけで優華はびくっと全身を震えさせて上体を起こし、怯えた目で前田を見た。そんな優華を前田は薄く笑ったままで見つめた。
「1人で背負うには重そう……まあ、どんな女でもそうだ。どうだ、楽にする方法、教えようか?」
「え?」
優華は怯えた表情のままでぽつりと言葉を返した。前田はふっと笑うとそっと身を乗り出して優華に体を近づけさせた。
「そのいやな過去を共有させれば楽になる。重い物も1人じゃなくて2人で持てば軽くなるのと同じだ」
「共有……って……?」
「もう1人いるだろ? 婦警さん」
前田がそう言うと優華は首を弱々しく左右に振った。
「ダ……ダメ…………先輩を私みたいになんて……こんな目に…………」
「しかし、過去を共有できれば、婦警さんはきっと楽になる。そんなフラッシュバックに泣いたり震えたりしなくてもよくなるんだ」
前田の言葉に優華は弱々しく首を横に振るだけ。まるでロボットか人形のようである。
前田はさらに続けた。
「それに、自分1人だけがそんな目に遭うのって納得行かないだろ? 同じ所にいる婦人警官なのに」
「…………」
優華の口から言葉が消えた。その瞬間、獲物を狙う獣のような隙のない前田の目が輝いた。前田はポケットからビニールで出来た小さな袋、パケットを取り出しそれを優華に見せた。
その中には白い顆粒が入っている。
「今度、婦警さんの先輩が外回りに出る時、上手くこれを飲ませるんだ」
「そ……そんな……できない……毒を飲ませるなんて…………」
「これは毒じゃない。風邪薬みたいな物だ。正確に言えば弱い睡眠導入剤なんだが」
そう言うとパケットを優華の手の方に差し出した。
「飲んでも死ぬ事はない。少し眠くなるだけだ……それだけで婦警さんが楽になるんだから、な?」
普段の優華ならば絶対に突っぱねていたであろう。しかし、今の優華は心を再びズタズタにされ、全身に恐怖と痛みが走った状態。
冷静な判断などできる訳がなかった。
楽になりたい、このフラッシュバックから逃れたい――
そんな思いが優華の頭の中や心を完全に支配したその時、優華の手が前田の手にあるパケットに伸びた。
そしてそれを受け取ると、膝上のハンドバッグの中に仕舞いこんだ。
その瞬間、前田は車のギアを入れて道路上でUターンをすると、車を下山させていった。
「はあはあはあ……」
激しい運動をした訳ではないのに優華の息は荒く、肩で息をしていた。前田はちらっとそんな優華を横目で見るとゆっくりと口を開いた。
「明日からもメールを定期的に入れておきます。外に出る時に上手く飲ませたらそれにちゃんと返してください」
前田の言葉に優華は黙っていたが、僅かに首を縦に振った。