5 再来
「情報提供よろしくお願いしまーす」
「提供お願いします」
駅前の広場に交番の若い警官や定年退職した警察OBの手伝いの声が響いていた。
行き交う人々にビラを渡し、声をかけ、殺人事件の情報提供をセレモニー的に呼びかけている。
「情報提供お願いします、お願いします……」
そんな中で優華は辛そうな表情を見せながら、淡々とビラを道行く人々に手渡していった。
その声は消え入るように小さく、ビラを手渡す人に届いているかすら怪しい。
だが、その表情や声は事件の深刻さを表しているように見えるのか、他の誰よりも新聞社のスチールカメラやテレビ局のテレビカメラのレンズが多く向けられていた。
(……あまり……撮られたくないな……)
レンズを感じながら優華は思った。しかし「やめてください」と言う訳にも行かず、優華はカメラを無視するように淡々とビラを配っていった。
「お願いします……っと」
手元のビラがすべてなくなった。優華がふうと初めて人間らしい溜息をつくと、そっと立ち位置を離れ、このビラ配りの責任者の方に向かった。
「あの、ビラがもうなくなりました」
「ああ、そこの袋にまだいくつかあるから」
責任者が指を差したその先に白い紙袋が1つ、立てて置いてある。優華はそこに向かおうとブーツの先を向けた。
「あ、でももうすぐテレビも新聞も撤収すると言ってるからもういいよ」
「そうですか……でも、一応……」
優華は軽く頷くと踵を鳴らしてビラの入った紙袋のそばに立ち、そっと屈んでその中からニ十枚程度の束を摘んで引っ張り出した。
その時、ふと彼女がビラを配っていた所と反対側の場所でビラを配る真理子の姿が目に入った。
真理子も優華と同じようにクールな表情を崩す事なく淡々とビラを手から手へと渡していた。そんな単純作業の中でもしきりに瞬きをしたり、あくびを噛み殺しているのか時折きっと口が真一文字に閉められたりとどうも普段通りに体が動いていない事を示すサインを出していた。
(薬、効いて来ているのかな……)
眠気を散らそうとするその様子は知らずに飲まされた薬の効能に戦っているように見える。
真理子の戦う相手を作ってしまった人間、優華は尊敬する先輩のそんな姿を到底見られないと感じ、彼女から目線をそらそうとしたその時、
「あっ!」
ばさっ!
突然、真理子が持っていたビラの束を地面に落してしまった。真理子はすぐにそれを拾おうと屈んだがその屈み方がまるで崩れ落ちるようにがくっとした物だった為に、優華は手にしたビラを袋に戻して真理子の方に駆け寄った。
「先輩!」
「あ、ああ……ヘマしちゃった」
普段の真理子なら軽く笑みの一つでも浮かべる所だが、そんな余裕はない。
深い溜息を一つ吐いて陰の入った表情を見せて落したビラを集めていた。
優華も真理子と一緒にビラを集めて拾っていた。
「あの……先輩、体、調子悪いんですか?」
「……何だかさっきよりも眠くなってきて……変ね。いつもは全然こんなんじゃないのに」
真理子の言葉がぐさりと優華の心に突き刺さる。優華はさっと一度真理子から目線をそらしてビラを拾うと真理子が拾い終わるまで待ち、一緒にゆっくりと立ち上がった。
「手伝います」
「ありがとう。でも、こっちは大丈夫だから……」
「先輩は夜勤明けだから、無理はしない方がいいですよ」
優華は真理子を手伝おうと拾ったビラを真理子に戻さないで持ったままで配り始めた。
「えっと、桜井さんに久保寺さん」
数枚配った所で責任者から二人に声をかけられた。
「はい?」
「マスコミ、みんな帰ったからもう引き上げてもいいよ。お疲れさま」
「……はあ」
帰ってもいいと言われた二人は責任者に軽く礼をして警察署に歩いて向かった。
その道すがら不意に真理子が溜息をついた。溜息に気付いた優華が真理子の顔を見ると彼女は目を意識的に激しく瞬かせ、きゅきゅっと指で目を押していた。
「だいぶ眠いんですか、先輩」
「……うん。なんだか……もう……」
そう言うともう一つ溜息をついてそのまま黙り込んでしまった。優華はじっと真理子を見つめると今歩いている大通りに面した路地の入口で足を止めた。
「こっち、行きましょう。近道ですから……」
「……そうね」
二人は大通りを外れ、署までの近道的な存在の昔からの住宅地に入っていった。
この住宅地はかなり高齢化が進み、活気と言う物は余りなく、車通りもない。2人が歩いている中で耳に入るのはブーツの踵がなる音、ただそれだけだった。だがその音は優華の「コツコツコツ……」と言ったリズミカルな物と真理子の踵の音の中に時折「ザッ」と靴底を擦る音が混じった足音の二種類が混ざった物であった。
(足に来ているんだ……)
真理子の足音を聞きながら優華はそう思ってちらちらと真理子を見続けた。閉じようとするまぶたを力づくで開け続けているように見えるその顔はビラ配りの時よりも険しくなっている。
薬が効きつつある様子にその顔が自分に向けられているように優華は感じ、思わず真理子から目を逸らして無関心を装って黙って歩き続けた。
「…………ねえ」
そんな足音に支配された時間がしばらく続いたその時、真理子がポツリと口を開いた。
「あ、はい」
「……ごめん、ちょっとあの神社で休ませて……」
真理子の目前には鳥居やお社、鬱蒼とした御神木に簡単な子どもの遊具やベンチのある少し大きめな神社があった。行こうと思えば署まではもうまもなくなのだが、とうとう限界に来たらしい。
優華はぴくっと一度肩を震わせて勤めて心配げな表情にして一つ頷いた。
「いいですけど……本当に大丈夫ですか?」
「うん、三十分くらい休めばどうにかなると思う」
二人は鳥居をくぐり枯葉をブーツで踏みしめながら境内へと入っていった。境内はしんとし、ここが神聖な空間である事を何も語らずして主張している。
そんな中を2人は踵の音と枯葉を踏む音だけを立てて進み、遊具を見渡せる場所に置いてあるベンチに行くとそこに座った。
優華は座るとはあと一つ溜息をつき、横に座った真理子を横目で見た。すると彼女は緊張感が解けたからか既に両目を閉じ、うつらうつらとしていた。
制服姿のまま外で冬の冷たい空気も気にせず眠っている。優華は横目から顔を彼女の方に向け、じっとその寝顔を見た。そのうちうつらうつらする頭の角度が徐々に下がっていき、鼻からすうと寝息もたち始めた。
(……完全に眠っている……)
真理子のそんな様子を見た優華はそっと制服から携帯電話を取り出した。そして真理子をちらちらと伺いながらメールを打ち始めた。
「『八幡神社のベンチに座っています。先輩は薬が』」
そこまで打ったその時、真理子の頭が隣の優華の肩にもたれかかってきた。
「!」
びくっと普通以上に驚いた優華は思わず手にしていた打ちかけのメールが液晶画面に浮かぶ携帯電話を落としてしまった。すぐに拾い上げようとしたが、余りにも真理子の顔が自分のそばにある為に携帯電話を拾い上げてさらに文章の続きを書く事などできなかった。
(ど、どうしよう……)
優華は怯えたような表情を浮かべ、じっと自分の肩にもたれて眠る真理子を彼女の制帽のつば越しに見つめた。
何の疑いもなく眠る真理子の顔。今、携帯電話を拾い上げてメールを打って前田達に知らせればこの顔が屈辱に歪み、自分と同じようになってしまう。自分が経験したあの悪夢のように。
真理子の寝顔を見つめる優華の表情が怯えた物から次第に普段の真面目で優秀な婦人警官の物へと変わって行った。
(……できない……やっぱり……もう薬まで飲ませたけど…………)
真理子を見ながら自分と同じような境遇にして傷を舐めあおうと考えた自分を優華は恥じた。そして真理子の頭が動かないようにそっと右腕を無理な体勢で伸ばし、携帯電話をなんとか拾い上げると打ちかけのメールを見た。
(……薬は効かなかったと言おう。弱い薬って言ってたから、うまく言えば納得してもらえる……)
そう思うと携帯電話のクリアボタンを押して今打とうとしたメールを消した、その時。
「やあ、お久しぶりですね、婦警さん」
「!」
突然背後から前田の声が聞こえた。優華が慌てて振り返ろうとすると前田がそっと顔に近付いた。
「動かなくてもいいです、先輩が起きるかもしれませんからね」
優華はささやくように言う前田の声にごくりと生唾を飲み込んだ。
「ど……どうしてここが……?」
「駅前でビラを配っている時からずっと交代で監視してたんです。で、ここにきたって連絡を受けて……あ、他の三人もちゃんと待ってますから」
そう言うと前田はさっとベンチの裏から優華の隣に座り、彼女の肩で眠る真理子を見た。
「婦警さんみたいにかわいい、じゃなくてきれいな婦警さんですねえ。駅前で見たけどなかなかスレンダーな体みたいだし……」
「あの……先輩を……先輩をレイプするのは……」
優華が震える声でささやくような小さな声で言った。すると前田はふっとそれを吹き飛ばすように鼻で一つ笑った。
「これは婦警さんの為です。大体、婦警さんが一服盛ってこうなったんですから」
「でも……私のために先輩を巻き込むなんてやっぱり――」
優華が言葉を続けようとしたその時、前田がさっと右手を彼女の前に伸ばした。
「今日はそれほど時間がない物でお話はここまで。婦警さん、手錠を」
優華は前田を睨み、手錠を取り出そうとしない事で僅かな抵抗を試みた。手を動かそうとしない優華に前田は唇を尖らせてふうんと息を一つ吐いた。
「そうですか……じゃあ、前やったみたいにするしかないか」
そう言うとそっとズボンのポケットからスタンガンを取り出した。
どうしてでも手錠を奪うつもりだ。スタンガンを見た優華はそう思い、一瞬背筋に冷たい物が走った。
「わ……わかった……」
真理子の頭を動かさないようにそっと右腕を後ろに回し、ホルスターに入った手錠を手にした優華はそれを前田に差し出した。
「どうも」
冗談っぽく礼を言うと前田は優華の隣でだらんと力を抜いて眠る真理子の手首を取ると寝ているにもかかわらずぴたっと膝頭がくっつき合っているスカートの上に置き、その手首に手錠をかけた。
かちゃっと無機質な拘束音が響いても真理子は目覚めない。よほど深く眠っているようである。
「さてと……ちょっと婦警さんにも手伝ってもらいます。ここの裏に車が止めてあるのでそこに一緒に運びます」
そう言うと前田はベンチの裏に回り、真理子の両脇に手を入れた。
「婦警さんは足をお願いします」
「…………」
もう言う通りにするしかなかった。優華は前田が真理子を支えるのを見てそっと彼女から離れ、きちっと揃った真理子のロングブーツの足首を持った。手にロングブーツの皮の冷たさと奥底から伝わる人肌のごく僅かな温もりが優華の手に感じられた。
(先輩、ごめんなさい……)
どうにもなるものではないが優華は真理子の足首を持つとそっと前田と力を合わせて彼女を持ち上げ、素早く境内を歩いてその裏に向かった。
そこには一ヶ月前に自分も乗ったワゴン車がエンジンをかけた状態で横付けされ、スライドドアを開けて待っていた。
「よし、そっちを持て」
前田が真理子の体を半分、車内に入れると中にいた松永がそれを持って車内に引きずり込んだ。
「ひょお〜、上玉じゃん!」
車内に引きずり込んで3人がけシートの真ん中に真理子を座らせる。松永はその寝顔を見てうれしそうに言った。
「ほ、本当なんだな……」
助手席に座る野村がシート越しに後ろを見ながら舐めるように真理子を見た。
そんな中で前田が三人がけの一番外側に座ると、車外の優華の手首を掴み、車内に引っ張った。
「きゃっ」
優華はこつこつっと踵を二、三度鳴らすと車内に引きずり込まれ、席に座った前田の膝の上に座らされた。前田は制服に身を包んだ優華の腹をきゅっと閉めるように右腕で掴むと、左手でスライドドアを一気に閉めた。
「よし! 車を出せ!」
「おっけっ!」
前田の声に運転席に座る吉田が下世話に笑い、車を発進させた。
後には何も残らない。ただ静寂にたたずむ神社があるだけだった。