5.6月30日
日時:06/25 18:54
件名:
本文:30日まで休みはありません。
歩行者天国の交通規制解除は18時。
規制の片付けをして交番に戻り、勤務表を見てすぐにメールを入れたのだろう。
『後で送る』と言ったから分かり次第に直ちにそれを知らせる。
人目を気にしながら交番の片隅で制服姿のままメールを打ち込む麻衣子の姿が目に浮かぶようだった。
こんな無機質で事務的なメールからでも。
「……可愛いなあ」
彼が思わず呟く。
麻衣子からの休みがいつかのメールはそんなすぐには来ない、そう踏んでいた。
勤務表を見て、溜息をついて、どこかで制服を着替えて帰宅し、夕食を取って風呂にでも入って汗を流して、寝ようとする前に教えておくか、と思って打つ。あるいは次の日にでも。
麻衣子にとって彼へのメール送信の優先順位はそれほど高くはない。そう彼は思っていた。
それとも。優先順位は実は高いのか。
そりゃ、婦人警官麻衣子の万引きの事実を知って、なおかつ証拠の存在を知っている本人以外の唯一の存在が彼。
そんなヤツに『教えて』と言われれば。身の破滅の可能性を持つ者からのお願いされれば。
取る物取らず、万難を排してでも直ちに教えるのが自然か。
彼は携帯電話を操作し、受信ボックスから送信ボックスに切り替えた。
日時:06/25 18:56
件名:わかりました。
本文:では30日にいつもの駅前で10時に。車を用意します。
メールをもらってすぐに彼は返信した。
彼にとって麻衣子と会う、会える事ができる事の優先順位はもちろん最高位。
考えたりする必要はない。
「………………」
彼は再び携帯電話を操作して送信ボックスから受信ボックスに切り替えた。
日時:06/25 19:08
件名:Re>わかりました
本文:それでいいです。その時で。
送信してから12分後の返信。
返信があってから数日、このメールを見る度に彼は首を傾げていた。
彼にはこの返信がよくわからない。そもそも返信があった事自体が彼にはわからなかった。
前に具体的な日時を指定したメールを送った時。返信はなく、彼もそれが麻衣子の「了解」の返信だと思っていた。
しかし、今初めて具体的な「了解」のメールが来た。
どう言う事か。お誘いのメールへの単なる反射行動。
しかし、それなら12分と言う間隔と言うのも気になる。反射にしては時間を置きすぎであろう。
かと言って交番か警察署の更衣室にまで行って着替えてそこから出て落ち着いて、と言う割には時間が短い。
推察。
彼からの返信を受けた麻衣子はトイレなり何かメールすらできない状態にあって終わり次第すぐに返信をした。
あるいは。返信を受けてそこに返信するかどうか逡巡し、迷った挙句に返信すると決断して返信した。
いずれにせよ。彼にはよくわからないちょっとした変化が起きている、のかもしれない。
「……ふう」
彼は色々と考えると携帯電話を閉じ、一つ溜息をつく。
携帯電話の液晶ディスプレイの片隅に浮かぶ9時43分の時刻。
ふと、空を見上げる。
まだ寝ぼけ眼と言う感じの日差しが徐々に目覚め始め、遮る物のない直射日光となって携帯電話の液晶ディスプレイを照らし上げる。
「……ふー」
さっきよりも浅く、長く息を吐く。
腹の底から何かがこみ上げてくるような感覚。
どことなく足元がふわふわし、胸がきゅっと締め付ける。それらの感覚が彼をそわそわと落ち着かせなくする。
まるで初めてデートに女の子を誘い、待ち合わせ場所で待っている。そんな感覚。
「何度も……会っているのにな……」
くすっと彼が笑った。
その時、駅から発車ベルと古い電車のモーター音が響いてきた。
駅の入口からぞろぞろと人が流れ出てくる。
彼はその人の流れに体を向かせ、人の流れを見つめた。
彼はわかっている。
真面目な麻衣子。そして、様々な場面での時間厳守を叩き込まれている警察官。
そして、今モーターを唸らせて駅を出て行った電車の次にこの駅に到着する電車は10時5分。
「やあ、来ましたね」
「………………」
彼が向けた笑顔の先には。
スニーカーにデニムのパンツ、薄いピンクのTシャツに赤いVネックのカーディガンを着た女性。
少し大きめのスポーツバッグを持った麻衣子がいた。
駅前の駐車場からレンタカーが1台、ゆっくりと出て行った。
「この前は大変でしたね。あんな人ごみの中でずっと立っているなんて
「それが私の仕事だから……」
ハンドルを握る彼。その隣には麻衣子が座っていた。
ちらりと彼女に視線を流す。
「…………!」
麻衣子は両脇を閉め、足元に置いたバッグの持ち手を両手できゅっと掴みながら心持ち俯いていた。
だが、俯いたのは今の瞬間。彼が視線を向けたその時は確かに麻衣子の視線は運転席に向いていた。
一瞬、2人の目が合い彼女は俯き、彼はふふっと笑った。
「そうですね。お仕事ってなったら何でもできますよね……僕だって夜通しのシフトの後にまた8時間出るとか休憩15分で15時間ぶっ通しのシフトとかやっちゃいますしね」
「それは……あの……違反なのでは……」
違反。
彼女の口から出たそんな言葉に彼は声もなく口元に笑みを浮かべた。
「じゃ、捕まえてくれます?」
「えっ、あ……いえ……そう言う事じゃなくて……あの……あなたを別に……」
麻衣子の口調がどうにも可笑しい。
今までも口ごもる様な調子でしゃべる時はあった。
万引きで彼と向き合った時や制服で、と言われて途惑った時。
しかし、今は何の時か。普通のコンビニ店員の非日常的日常を話しているだけなのだが、それに途惑う筋合いもないはず。
車に2人きりで乗っている、のは初めてではないので今更改めて途惑う事もない。
眼前の交差点の信号が赤になる。
彼は気を使うようにゆっくりと車を止める。そして、僅かに首を麻衣子に向けて俯く彼女の横顔を見てははっと軽く笑った。
「そうですよね。僕は言われて労働基準法無視した労働をしているんですしね。そうしてって言ったオーナーの方を捕まえないといけませんもんね」
「え、あ……そうですね……」
一瞬、彼女の横顔にほっとした安堵が浮かぶ。
彼は首を正面に向けふっと鼻から息を一つ抜いた。
「でも、石橋さんの方が僕らなんかよりも大変でしょう。昼も夜もないし、呼び出されたら飛んで行かないといけないし……」
「いつも……そうって事はないです」
麻衣子がぽつんと言う。
彼はふと、彼女の方へ僅かに首を向けた。
「大学前の交番は繁華街と違うから朝も夜もと言う事はないから……駅前の自転車置き場や大学周辺、周辺の団地を回って決まったシフト通りに勤務をして……」
「そうなんですか」
信号が青に変わる。
静かに車を発進させて交差点を直進して抜ける。
彼は前を見ながら撫でるようにハンドルを握り、軽く上唇を突き出した。
「シフト通り、と言っても同じようにシフトで動く僕らとは違いますよね。僕らはお客さん相手、そちらは怪しい人、犯罪者を相手にしているんですから」
「それが仕事。大変って思ってたら何もできないから……そうやって相手してないと犯罪は防げたりしないし」
「交番の前でああ言う風ににこりともせず、淡々としながら声かけたりするのはその為、ですか」
少し意地悪な調子で質問する。
彼はちらっと麻衣子の顔に視線を流した。
「する必要がないでしょ。警察官が愛想振りまいてどうするの……大した事ないって思われるだけだから……」
彼女は吐き捨てるようにそう言い、顔を上げて窓に視線を向けた。
制限速度で流れる街の景色。
それを麻衣子は静かに眺めていた。運転席から視線を逸らそうとするように。
流れる景色の手前、窓に映る自分の顔を見ながら彼女は一つ、溜息をついた。
「警察官は威厳が必要なの。重々しくて怖がられて恐れられるくらいの……そうでないとずっと認められないし、数字も挙げられないし……」
「そうかもしれませんね。そう言う警察官がいるからこそ僕らは安心して生活できるんでしょう」
運転しながら彼が目を細める。
ちらっと麻衣子を見ると彼女は軽くはにかんだ笑みを見せて小さく俯いていた。
「でも」
彼は軽くブレーキを踏み、ゆっくりと減速させながらぽつりと言った。
「大変じゃありませんか」
「え?」
続いて彼の口を突く同じ質問。
麻衣子は軽く首を運転席側に向けた。
その眼差しは同じ質問を繰り返す事への不審と何が言いたいの、と言いたげな不安が入り混じっている。
彼はハンドルをきゅっと握って口から一つ息を吐いた。
「そうする事が、です。威厳を保とう保とうとするのって大変だと思いますよ……多分に無理をしないとできないのではないでしょうかね」
「…………」
麻衣子が視線を逸らして俯く。心なしかバッグの持ち手を握る手の力が強くなっているように見える。
彼は続けた。
「外見、地位、年功……威厳を出そうとするにはそんな物が必要です。石橋さんは歳は僕とそんなに変わらないし、地位も上の方じゃありません。それなのに威厳を出そうって言うのは……大変な無理をしているんじゃないかなって」
「……仕事ってなったらなんでもできる、って言ってなかった?」
きっ、と麻衣子の眼差しが強まる。
不審者や犯罪者に向ける警察官の目。まさにそんな眼差しが運転席の彼に向く。
彼はそんな麻衣子の眼差しにふふっと小さく笑った。
「できますよ。できますけど、代償も払わないといけません」
「?」
「滅茶苦茶なシフトをした後は一寝入りした後でもへとへとで起き上がれなくなるほど消耗します。一度背中が痛くなって朝起き上がるのに30分かかった事もあったかなあ。なんでもできるけど、それなりの代償が必要になると思います……そして」
前を行く車が止まり、彼の車も止まる。
完全に止まると彼は彼女の方にしっかりと首を向けた。
「その代償は石橋さんも払っていますよ……ね。万引きするくらいに……」
「やめてっ!」
麻衣子が悲鳴のような声を上げて体を倒してうずくまった。
彼はふうと一つ息を吐いて何も言わずにフロントガラスに顔を向けた。
「…………何をしたいの……」
うずくまったままで麻衣子が言った。
彼は何も聞こえていないような素振りで前で止まる車のナンバープレートを見ていた。
「確かに私は万引きをした……警察官として、いや、人間としてやってはいけない事……でも……何が目的なの……こんな……こんな……」
そこまで言った瞬間、彼女はばっと上体を起こし、運転席の方を見ると真っ直ぐ彼の横顔を睨んだ。
「こんなに私を苦しめて……私をむちゃくちゃにするでもなく、半殺しみたいにして……どう言うつもりなの! 教えて! 私を……私をどうしたいの! 私は何をすればいいのっ! あなた、何を考えてるの!」
早口でまくし立てるように麻衣子が言った。
密閉された車内に彼女の言葉がじーんと響くよう。
その余韻の中、麻衣子は彼の横顔を睨み、その返事を待った。
前の車が動き出す。
彼も静かに車を発進させる。
タコグラフの針が2000回転を指し示す。
「僕が」
麻衣子の眼差しを受けながら彼が口を開いた。視線を真っ直ぐ前方に向け、彼女を見ないままで続ける。
「石橋さんをどうしたいか、石橋さんは僕に何をしてほしいか、僕は何を考えているか……はっきり言って僕も今はわかりません」
「えっ!」
麻衣子の目がかっと見開く。その目が軽く潤んでいる事も彼は気付かない。
彼は続けた。
「最初は石橋さんが事務所で見せた態度や様子が今まで見てきた万引き犯とは明らかに違う事にどう言う万引き犯なのかな、って興味を持っていました。で、警察官だからそうなのかな、ってある程度は納得しかかってはいたのですが。でも、なんだか……」
彼が右の方向指示器を動かす。
こっちんこっちん、と軽い音が車内に響いた。
麻衣子のさっきよりも力の抜けた眼差しを感じながらさらに続けた。
「最近はそうでもないです……どう言う万引き犯なのか、と言う事は正直どうでもいいです。ただ、婦人警官石橋麻衣子がどんな人か、石橋麻衣子さんと言う女性がどんな人なのか。石橋麻衣子さんを知りたい、婦人警官の石橋麻衣子さんを知りたい……なかなか説明はしにくいのですけど」
ゆっくりと車が右折する。
麻衣子の体が揺れ、一瞬、彼の横顔から視線が外れた。
「あえて言うならば、今は」
右折しきって車が真っ直ぐたて直ったと同時に彼はまたさらに続けた。
「僕は石橋さんの事をもっと知りたい、石橋さんは僕に石橋さんの事を話してほしい。そして」
彼はちらっと彼女に視線を送った。
彼を見る麻衣子の視線とぶつかる。その瞬間を逃さず彼は言葉を続けた。
「僕は石橋麻衣子さんの事を考えています」
「…………ふっ、ふざけ……」
ぷいと麻衣子が顔を完全に背けて窓から真っ直ぐに景色を見た。
その瞬間、彼女ははっとした。
「ねえ、どこに行くの? どこへ連れて行くの!」
その景色は今まで彼に車で連れて行かれた景色とは違う景色。
いつも行くあのホテルの道ではない。
麻衣子は顔を軽く赤くして彼の横顔を見ながら強く訊いた。
彼は真っ直ぐ前を見ながらふっと小さく笑った。
「あそこでは石橋さんの事はわかりません。だから……わかるような場所です」
「………………」
椅子に座る麻衣子は明らかに戸惑っていた。
「コーヒー2つ……何か食べます?」
「えっ、あ、いいえ……」
「じゃ、それで」
彼がウェイターに注文を告げるとウェイターは静かに2人から離れていった。
2人がいる場所。そこは最近オープンし、フリーペーパーなどでデートの穴場として紹介される洒落たカフェダイニングだった。
初夏の日差しを白いテント布で出来た幌で遮るオープンテラス。そこに2人が丸テーブルを挟んで向き合っていた。
「あの……どうして……」
「いいじゃないですか。コーヒーでも飲みながらお話するって言うのも。それとも……車やあの部屋みたいに密閉された空間の方がよかったですか?」
「い! いいえ……でも……これじゃ……」
きゅっと彼女の両手が強く常に持ち歩くバッグの持ち手を握る。最早このバッグは彼女のお守りのようになっているようだった。
彼は頬杖を突き、戸惑って俯いてしまった麻衣子を見てふふっと笑った。
「デートみたい、ですか?」
「! ばっ、バカな事……そんなんじゃ……」
ぼっと頬が赤く染まる。麻衣子は俯いたまま顔を背け、できる限り彼から視線を遠ざけさせた。
「ですよねえ。本当のデートはこんなのではないですよね」
「……知らない」
ぽつりとこぼす麻衣子。その言葉を聞いた彼は目を細めて俯く彼女を見つめた。
「知らない事はないでしょ。石橋さんだったらデートくらいした事あるでしょうし」
「そんな暇……ないから」
「今はお仕事で無理でしょうけど、高校時代とかは……」
「もっとそんな暇、なかった」
麻衣子はふうと大きく溜息をついた。
「高校の時、いや、中学、ううん、小学校からずっと剣道と勉強に明け暮れてたから……男と付き合うとかそんなの考えもしなかった」
「剣道と勉強ですか……なんだか警察官になる為の学生時代、って感じですね」
「そう」
ゆっくりと顔を上げ、そっと頬杖をついた麻衣子が軽く幌を見上げた。
そして溜息混じりに続けた。
「私……昔から警察官になるのが夢だった……ううん、私は警察官になるものだ、って思ってて」
「そうなんですか……でもそんなに強く思うのは……」
「お父さんが警察官だったから」
なるほど。
彼はそう思うと同時にやっぱりと納得した。
麻衣子の目を彼はジッと見る。
その目は思い出に浸り、懐かしさに若干潤み、遠くを見る眼差しになっていた。
麻衣子は続けた。
「お父さん、強くて格好よくて……大きくなったらああなりたい、ああなるんだって。その為に私、剣道を始めて勉強もやって……」
「夢ですかあ。そんな早くから目指して頑張るなんてすごい……でも、周りの同級生とかは遊んでいるのに羨ましいとか思いません? 普通」
「別に……羨ましいとか思わなかったな……剣道してた方が楽しかったから」
ふっと麻衣子は素っ気無い。
目指す物にまっしぐらだと周りは見えないと言う事か。
ほわっとした眼差しで心持ち上の方を見る麻衣子を彼は細めた目でさらに見つめた。
「じゃあ、石橋さんは警察官になるべくしてなった、のですね。それだけ強い意志と夢を叶えようとする努力があるんですから……凄いですね……」
「いいえ……そんな凄い事じゃ……」
麻衣子がはにかんで俯く。
彼は可愛らしくもじもじとする彼女を見ながらふふっと笑った。
「いや、凄い事です。夢を叶える事ができた人は無条件で尊敬してしまいますよ。僕なんか夢もなんにもなく、なんとなく学校を出てなんとなく今のコンビニの仕事をして」
「でも……夢を追いかけていた時が……一番楽しかったのかも」
ぽつん、と麻衣子が言った。俯いていた顔を上げ、狭まった気管から空気を押し出すような、苦しげな溜息交じりで。
その時、ウェイターがコーヒーを2つ運んできた。
彼女は口をつぐみ、静かに前に置かれるコーヒーカップを目線で追う。
彼にもコーヒ−カップが置かれ、ウェイターが立ち去ると彼は細くした眼差しで続けるように促した。
「私も警察官になったらお父さんみたいに強くて格好良くて威厳のあるようになれる、って思ってたけど……でも……全然違う」
麻衣子は目の前に置かれたコーヒーに視線を落とし、揺れる漆黒の水面と静かに立つ白い湯気を眺めながらさらに続けた。
「警察官は仕事の内容や忙しさに男も女もない……学校から現場までずっと手加減も容赦もなくやるけど……でもやっぱり女は軽く見られる……」
「そうでしょうかね。コンビニでいると昼夜なく婦警さんが見回りに来たりしますし、その時はお店の中もぴん、とした空気になるから……それほど男の警察官と変わりはないと見えますよ」
彼がコーヒーカップを手にしてその淵に口をつける。
麻衣子は彼の言葉を聞くとうっすらと口元に笑みを浮かべて首を横に振った。
「何もしていない、普通の人には私も男の警察官も同じ警察官だけど……違反をする人、違反をどうとも思わない人には……そうならない」
テーブルの下にある麻衣子の手。バッグの取っ手を掴んでいる手がきゅっと強く握り締められた。
彼女はコーヒーに向けている眼差しを睨むような、強い眼差しに切り替えてコーヒーに視線を突き刺すとうっすら浮かべていた笑みを消してさらに続けた。
「私を女だからって軽く見る……ナンパみたいに持ち上げれば私がいい気分になって許してもらえる……強く突っかかれば怯えて見逃してもらえる……そう思って……私をナメてかかる……警察官なのに……警察官って見ないでに見下して……」
「そうなのですか」
「そう……そんなのに限って応援の男が来たら急に態度を変えて、情にすがろうとするみたいにぺこぺこする……」
麻衣子の口から流出してくるように紡ぎ出される言葉。悔しさに押し出されて出てくる言葉は心の叫びとも恨み節とも聞こえる。
彼は大きく溜息をつき、口を軽く閉めた。
彼女はさらに続けた。
「同じ警察官なのに……私が女だからって……」
「だから無理をしてでも威厳を持たなきゃって」
彼の言葉に麻衣子は何も言わず、頷きもせず、ただ言葉をつぐんだ。
沈黙。
彼女の作り出す沈黙の反応。彼はその「肯定」を示しているであろう反応になぜかほっとする物を感じた。
沈黙で俯く麻衣子。そんな麻衣子の顔を見ると彼の口の中が乾いてくる。
もう一口、彼がコーヒーを口にする。
「威厳を持つには無理してでも足りない、と言う所なんでしょう。でも、それを制服が補うと思うんですけどね……警察官の制服を見ただけで緊張はするでしょうし」
「……制服だって……」
ぽつり、と麻衣子が呟く。再びぎゅっとバッグの取っ手を強く握った。
「制服だって女性警察官は見ればすぐに分かる……あんな丸い制帽も可愛らしくって全然威厳がない……私がどんなに頑張っても、制服を着ても違反をするヤツらは警察官なのに軽く見る……あなただってそうでしょ」
きっ、と顔を上げて彼を見つめる。
その眼差しは強いが警察官としての強さではない。一人の女性、石橋麻衣子の強い思いが浮かぶ悲鳴のような強さだった。
彼女は続ける。
「あなただって……私の制服姿を求めている……私が女性警察官だから、女性警察官の制服を着ているから……制服の私を求めて半殺しみたいにして……」
「そうじゃないですよ」
彼がぽつりと言った。
彼の否定の言葉に麻衣子は軽くはっとして言葉を引っ込め彼の顔を見つめた。
麻衣子の真っ直ぐな眼差しを受けながら彼はにこっと軽い笑みを彼女に向けた。
「僕は婦人警官だから、こうして石橋さんをお誘いしている訳ではないです。さっきも言いましたけど万引き犯の石橋麻衣子さんがどんな人かが最初の興味でした……でも、今は石橋麻衣子さんに興味があるんです」
「じゃあ、あの制服で、と言うのは?」
「警察官、は石橋さんを構成する最も大きく重要なパーツです。警察官の石橋麻衣子を間近で見れば石橋さんがどんな人かな、あんな万引きなんてセコい事をするのかな、ってわかると思ったので」
彼の軽い笑みに麻衣子は口を軽くへの字に曲げる。
何か言いたそうだが何を言おうか迷っているように見える。
「……わかったの?」
ぽつり、と彼女が言う。彼は笑みを見せたまま軽く首を傾げて見せた。
「石橋さんは警察官と言うより婦警さんと言う事に苛立ちと苦しみを感じているのかなと。警察官と婦警さんは別物、と言う風にまで思っている。石橋さんは警察官になりたい、と思い続けてもなかなかなれない。そこにもがいるんじゃないですか?」
「…………」
麻衣子沈黙。
彼女の沈黙を聞きながら彼はふうと一つ鼻から息を抜いてコーヒーを一口、口にしてさらに続けた。
「かと言ってなれないからって投げ出す事もできない。それどころか、投げ出す事に恐れを抱いている……制服で会おうと言って本当に制服を持って来る、なんて危険を犯してまで僕の口を止めようとするのですから……そこまでしてなぜって不思議でしたけど……警察官になる事が夢だった、と今日わかって納得しました」
にこっと彼が笑う。
麻衣子ははっとして慌てて俯き、まだ手をつけていないコーヒーカップに視線を落とした。
「……そこまで……私を……」
「あくまでも推論。理解しているって訳じゃないですよ……それに、僕はまだ警察官の石橋麻衣子さんを推察しただけでまだまだ……」
笑いながら彼はもう一口コーヒーを口にする。
すると麻衣子は顔を上げてコーヒーを飲む彼の顔を見た。
「じゃあ……教えて……私は……私はどうすればいいの……ナメられない、威厳のある警察官になるには……どうすればいいの?」
「え」
細めていた目をはっと見開いた彼が軽く驚いて口からカップを外した。
麻衣子はじっと彼の顔を見つめている。
その口からつむぎ出されるであろう、彼女の求めている答えを期待して。
彼はそんな視線を受けながら軽く考える素振りを見せた。
「そうなるには性転換して男の警察官になるしかないでしょう。石橋さんは女性である事から変わる事はできませんから、男性のお父さんのような威厳や格好良さを求める事はできませんし、持つ事もできないでしょう」
「そんな……」
「でも、女性には女性にしか出来ない事もあるはずです」
彼は笑顔を引っ込め、引き締めた真顔で真っ直ぐに彼女を見つめた。
「石橋さんは女性警察官、婦人警官です。婦人警官には婦人警官の格好良さ、魅力があるはず、いや、あります。現にもう石橋さんはそれを持っています」
「嘘よ……そんな訳……」
「いいえ。確かにあの制服を着て街に立つ石橋さんは背伸びして威厳を保とうとしてはいますけど威厳はありません。でも、近寄りやすい、格好良くて親しみやすい、そんな男の警察官にはない警察官の魅力があります」
「…………」
麻衣子は真顔で真っ直ぐな彼の視線から逃れるように俯いた。
既に湯気は消えうせている漆黒の水面。そこに薄く頬を赤らめた麻衣子の顔が揺れている。
そんな俯く彼女に彼は続けた。
「石橋さん、婦人警官である事にもっと自信を持ちましょう。そんなに悪い物じゃないです。見方を変えたらお父さん以上に格好良くて魅力的な警察官になれます、いや、もうなっているのですから」
「…………私……そんなに……」
俯いたまま、彼に視線を向ける事もなく麻衣子が弱々しく言う。
彼はそのまま泣き出してしまいそうな調子の麻衣子に真顔を解いてにっこりと笑った。
「石橋さんは着てなくても魅力的な女性です。そんな石橋さんが制服を着て婦人警官になったら魅力的な婦人警官になるのは当たり前なのですから……」
「でも……そんな……私は……」
「じゃ、こうしましょうか」
そう言うと言葉を切り、残り少なくなったコーヒーを景気づけのようにくっと一気に飲み干す。
そして、そっと空のカップをソーサの上に置くと俯いたままの麻衣子を再び真っ直ぐ見た。
「次に会う時、石橋さんが一番女っぽい、威厳がないなって思う格好をしてください。どれだけ婦人警官の自分が魅力的か、どれだけ魅力的に映っているのか一緒に見ましょう」
「え……次……」
彼女がはっと顔を上げる。彼はにっこりと笑って一つ頷いた。
「ええ、次です」
「あの、これからは……?」
思わず麻衣子が聞く。
この後お決まりのようにどこかのホテルに行って――。
そう思って覚悟もしていたのに。
麻衣子は拍子抜けどころか呆然としてしまった。
呆気に取られたような彼女に彼はふふっと悪戯っぽく笑い、視線を彼女から逸らしてテラスから晴れ渡った空を見上げた。
「ここを出たら海にでも向かってドライブしましょう。こんないいお天気に室内にいるのはもったいないですしね……それに」
顔を空へ向けたまま視線だけを麻衣子へ向ける。
麻衣子はそんな彼をじっと見つめている。
「今日は婦人警官石橋麻衣子さんじゃなくて女性石橋麻衣子さんと一緒にいてお話をしたいのですから……お付き合いできますか?」
「…………」
麻衣子は黙り込んで俯いてしまった。その姿には女性としての恥ずかしさがほのかに浮かんでいるように見えた。
彼女は俯いたままでコーヒーカップを手にし、くん、と軽くそれを口にした。
「…………いいですよ……あの……私でよければ……」
「ありがとうございます……あ、そうそう」
彼は顔を空から彼女に向けてその笑みを差し出した。
「次はいつ会えますか? 石橋さんに合わせますよ」
そう言われた麻衣子はコーヒーをもう一口口にした。
そして、半分ほどまで飲むとカップをソーサに置き、静かに顔を上げて彼を見た。
「次の休みは7日……七夕です」
そう言った瞬間。
麻衣子の表情は普段と変わらない普通の表情。
しかし、その口元に僅かに悪戯っぽい笑みがふっと浮かんでいた。
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