4.6月25日
件名:Re>
メール:その日は仕事で無理です。
彼の携帯の画面に浮かぶのは3日前のお昼時に届いたメール。
麻衣子の勤務パターンを大まかに把握している。時間から見て彼女の勤務中に返信されたメールだろう。
この日に会えますか。
そんなお誘いのメールに対しての返事はこれだけ。しかし、彼にはこれで十分。
そもそも、あっさりとOKのメールが来るとは思っていない。断りでも返事がくるだけでいい、そう思ってメールを送信していた。
彼はふむと一つ息を吐いて携帯電話を操作して10日前に届いたメールを見る。
件名:
メール:困ります。勤務中だから。すぐ帰って。
そのメールの本文を読むと彼は思わず小首を傾げた。
10日前に届いたメールも3日前に届いたメールもそう大きな差はない。
しかし、なぜか物凄い差があるようにも感じた。
あの交番前でのつんけんどんな職務質問の様子が蘇ってくるような素っ気無い返答に変わりはない。
しかし、何かが違う。
10日前のメールは彼が思う通りの石橋麻衣子巡査のメール。
愛想のない、自動事情聴取マシーンな婦人警官石橋麻衣子巡査が打つ彼女らしい文章。
それを目の当たりにしてがっくりもしなかったし、傷つきもしなかった。むしろ彼女らしいやと微笑みすらした。
では、3日前のメールは。
どうにも婦人警官石橋麻衣子巡査の打ったメールには見えなかった。麻衣子が打ったのは違いないのだが、何かが違う。
淡々と、最低限度の内容しかそこにはないが、それ以上もあるような気がするし、『ごめん』と文末に付け足せる隙もあるような気もする。
こんなのじゃない。
彼の中では彼女はこんな返事が来るだろう、と予想していた。
『メール:無理、仕事。』
これが婦人警官石橋麻衣子巡査の打つメール。
感情も隙も何もない。あるのは警戒感のみが表に出る文面。これ以上会話の発展など望めそうもない文面。そう思っていた。
では、3日前のメールは誰が? 麻衣子には違いない。しかし、どの麻衣子か。
婦人警官石橋麻衣子巡査、ではなく万引き犯石橋麻衣子、でもない。
いや、恐らくは他の何者でもない、石橋麻衣子、だろう。
「面白い……」
その推測が本当かどうかはわからない。あっているかどうかすらもわからない。
ただ、婦人警官石橋麻衣子巡査ではない一女性、石橋麻衣子が制服を着た勤務中でも、そして彼に対してでも発現しかかっている事は確かな様子。
今まで見てきた婦人警官石橋麻衣子と万引き犯石橋麻衣子とは違う、しかし、その根幹を成す女性、石橋麻衣子が見えてきているように思えた。
「実に面白い……」
見た事のない麻衣子の出現に彼はくすっと笑った。
実験をしていて思いも寄らぬ結果が出た時のような、驚きと戸惑い、そして気持ちよく増幅する期待と興味に包まれていく感覚を覚えていた。
しかし、実験は結果だけでは意味を成さない。その結果から何を導き出すか、何が原因でそうなったのかを考えねばならない。
麻衣子の変化の原因。10日前と3日前との間で何があったか――。
彼にホテルで制服姿の自分を褒められながら撫でられ、抱きしめられたくらい。
「……面白いなあ」
石橋麻衣子と言う婦人警官、石橋麻衣子と言う女性への興味を膨らませながら彼はそう呟くと携帯電話を閉じ、ポケットに突っ込んだ。
携帯電話から離れた視線を周りに向ける。
彼の周りではのんびりとお喋りしながら歩く家族連れや大道芸に集う人々、露店で買い求めたビールを片手に歩く人と各々で自由な空間を楽しむ様が見られた。
今日は街の目抜き通りを封鎖しての歩行者天国が開催されていた。普段、ひっきりなしに自動車が走り抜ける大通りが今日だけ歩行者に解放され、さながらお祭りのような盛り上がりを見せていた。
彼はそんな雑踏の中を宛てもなく歩いていた。本当に暇つぶし、他にする事もいく所もないと言う風情で歩いていた。
3日前に届いたメールで麻衣子が書いていた「その日」と言うのが今日。予定を空けていた彼だが、麻衣子が会えないとなって暇を弄ばせ、ふらっとここに出てきたのだ。
「…………」
ひょっとして、この歩行者天国の警備に駆り出されているのでは。『仕事で』の仕事はこの事なのでは。
そんな薄い期待を持ってここへやって来た。交差点の入口や路地で婦人警官の制服を見る度にはっとしてそれに近付くが違うと分かってすぐに踵を返す。
そんな動きの繰り返し。まだ露店で何かを買ったりしてないし、大道芸の一つも見ていない。
何を求めて歩行者天国に繰り出しているのか。
彼は時折立ち止まってはそう自分に問い掛けてふっと笑った。
変な期待はよせ。どうせ彼女は大学前の交番で職務質問をして痛くもない腹を探っているさ。
自分への問い掛けにそう自分で返事をして再び歩行者天国の中を歩いた。
そして、歩行者天国の終点が見えてきたその時、
「んっ?」
裏道に通じる路地の入口で彼の足が止まった。
視界の際に僅かに入った物。彼はゆっくりと首を路地の方へ向けた。
そこには通行止めを示す柵と横に1人の婦人警官が立っていた。
紺色の丸い制帽、肩の上で切りそろえたショートカット、肩の無線機、空色の長袖シャツ、紺色のベスト、警棒や手錠を下げたベルト、大き目のヒップ、紺色のスラックスに黒革のショートブーツ。
彼の口元がふっと緩む。
あの後姿は――。
彼はその顔のまま、足元に捨てられている歩行者天国周辺の地図を拾い上げた。そして、ゆっくりと、急く気持ちを抑えつつその婦人警官へと歩み寄って行った。
「すみません」
「は……い……!」
すうっと振り返った瞬間、引き締まっていた彼女の表情があっと驚きの表情に変わりそのまま固まった。
振り返ったその顔は麻衣子の物だった。
その顔はまさに不意討ちを受けたような驚きに溢れ、制服姿で見せるワンパターンな引き締まった表情とは全然違う生き生きした顔だった。
街中で不意に友人とばったり出会った驚きの顔。そんな顔が彼の目の前にあった。
「……な……なんで……」
麻衣子は固まった顔面を力づくで崩し、勤めて普段の婦人警官麻衣子の表情を浮かべようとした。
しかし、その顔は戸惑いに満ち、動揺を隠しきれていない表情を浮かべ続けていた。
そんな彼女を見ながら彼はくすっと笑った。そして笑いながら手にしている地図を麻衣子に見せた。
「ちょっと聞きたい事があるんです」
彼の言葉と地図を前にして麻衣子の表情がふ、と落ち着きいた。動揺は表情の片隅にまだ浮かんではいるが勤務中の婦人警官の表情にはなった。
「……なんですか……交通規制の事ですか?」
「いや……」
普段通りのつんけんどんな口調で訊く麻衣子。しかし、それすらもなんだか不安定でいつもよりも壁は低く薄く感じる。
そんな麻衣子に彼がそっと寄り添う。麻衣子は一瞬、彼と距離を置こうと動きかけた。
彼は麻衣子に地図を見て、と言うようにしてさらに寄り添った。彼女はぴくっと肩を僅かに震わせて彼の意思に従い、彼に寄り添った。
彼がある麻衣子の横顔を見る。
婦人警官らしい、凛とした表情になってはいるがそれが定着していないように見える。
生乾きのコンクリートのような、何か付けるとそのまま跡に残ってしまいそうなそんな不安定さのある表情だった。
彼はちらっと地図に視線を落とし、ふっと笑顔を浮かべながら再び彼女の横顔を見た。
「そんな表情も浮かべるんですね」
「……聞きたい事って……それですか?」
僅かに不機嫌さが麻衣子の目元に浮かぶ。
彼はくすっと笑って返した。
「いや、石橋さんも普通の女性ですし、人間ですから浮かべる事もあるでしょう」
「何を……」
「可愛い、ですよ。そう言う石橋さん」
「…………!」
彼の言葉に彼女ははっとし、彼の顔を見た。
「……じ、冗談はやめて……こんな所で……勤務中に……」
慌てて周囲を見渡してぼそっと麻衣子が言った。
周囲には歩行者天国に向かう人、抜ける人、避ける人、様々な人や車がいる。
傍目からは真面目に丁寧に道を教え、任務を全うする婦人警官と迷える一般市民、普通の道案内に見えるだろう。
そんな中、婦人警官の麻衣子へ向けた彼の「可愛い」と言う言葉――麻衣子の凛とした婦人警官然とした表情に再び動揺と言う名のほころびが浮かんだ。
「こんな所で冗談なんか言いませんよ……そんな可愛い石橋さんが婦人警官の制服を着て勤務する姿はとっても似合っていますね」
「…………」
麻衣子は地図に目を落とし、視線を切った。動揺を悟られまいとするような動きだが、その動き自体が動揺による物と見えてしまう。
地図を見るふりをしてうつむいて黙りこく麻衣子を見ながら彼はふふっと笑った。
「今まで制服を着た時の硬い表情しか印象に残ってないですしね……あとは……制服を着ていない時に泣き顔とおろおろした顔しか見た事ないですからね……」
「……やっ……!」
一瞬、麻衣子が大きな声を上げかけたがすぐにはっとして自分で押さえ込んだ。
彼女はきゅっと下唇を一度軽く噛んできっ、と、しかし力のない眼差しを向けた。
「やめて……こんな所でそ、そんな事言うの……聞きたい事って何? 余り長い間道案内するのって不自然だから……」
「もっと石橋麻衣子巡査、いや、石橋麻衣子さんを知りたいんです……」
麻衣子はとにかくこの場から彼から離れたいと思っている様子。
これ以上何を言われて自分に動揺を与えるのか。
動揺に揺らされ続けたせいか、彼女の目が軽く潤む。そんな麻衣子に彼は視線を向けた。
「今度いつお会いできますか?」
「…………わからない。ここじゃ……交番に戻って勤務表見ないと……」
麻衣子はまた辺りを見渡しながらそう言う。
彼は笑みを見せたままで一つ頷いた。
「そうですねえ。じゃあ、分かり次第メールくれますか?」
「…………」
こくん、と麻衣子が頷いた。彼はにっこり笑って一つ頷き、手にした地図をそっと折りたたんだ。
「ありがとう……」
その時、彼が麻衣子にちらっと彼女のいる方向と反対の方向に視線を向けた。
それにつられる様に麻衣子も視線を向けるとそこに3歳くらいの男の子が1人不安げに辺りを見渡しながら立ち尽くしていた。
麻衣子は目元を人差し指で軽く拭うとブーツの踵を鳴らしながらゆっくりと男の子に近付いていった。
本当の石橋麻衣子と言う女性はこんな姿、なんだろうな。
笑みを浮かべながらそう思った。
「どうしたの? お父さんやお母さんは?」
彼の視線の先には男の子ににっこりと柔らかな笑みを向け、優しく話しかける婦人警官、石橋麻衣子がいた。
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