3.6月18日
「……ふう」
椅子に座った彼が一つ息を吐く。
口元にはいつもの笑みを浮かべ、じっと真っ直ぐ見つめていた。
「返信がないからどきどきしてましたよ」
彼が言葉を前に向かってかける。しかし、返事はない。
「もっとも。それが返事だと信じてましたけどね……」
独白のように言葉を紡ぐ彼。返事はなくとも笑みを絶やさず、むしろ返事のないコミュニケーションを楽しもうとしているよう。
「ダメならダメって、できないならできないときっぱり言うでしょうし」
ふと、彼が視線を脇に逸らす。
「……できないって言っても……させているのでしょ……こんな……こんないけない事……」
初めて言葉が返ってくる。彼はふふっと薄く笑って再び視線を元に戻した。
「させてなんていませんよ……してもらっているんです。貴女の都合のいい日を選んで会う事にしましたし、それにメールでは『服装を変えてきて来て』としか書かなかったのですから」
「でも……」
言葉が消える。言い返すのを諦めたのか、言い返す言葉が浮かばなかったのか。
素っ気無さが出ている相手に彼はもう一つくすっと笑った。
「もうどっちだっていいでしょう。最初にお店で会ってから一週間は過ぎて知らない仲ではないのです。互いに考えていること、してもらいたい事もわかりあうはずですからね……」
一週間。その言葉を口にした時、ふと3日前の記憶が蘇った。
大学駅前交番のそばのコンビニから勤務先のコンビニに行って18日を休みにしてほしいと言った時。
「あ、いいっすよ。18日っすね」
軽い調子でフリーターの男が言った。こう言う自由人がいると休みのシフトなどどうにでもなる。
フリーターは携帯電話をいじくってスケジュールを打ち込み始めた。
「でも珍しいっすね。休み変わってくれって」
そうだっけか?
彼がとぼけた返事をする。するとフリーター、視線を彼に向けてにたっと笑った。
「そうっすよ〜。初めてじゃないっすか? そういうの」
まさか。
苦笑いを見せる。フリーターはまじまじと彼の薄い笑みを見た。
「なんかあるんすか? あ、女?」
一瞬、フリーターが鋭い、と思った。しかし、このフリーターなら親の葬式以上に女の事を大事に考えかねない。
休みを変わるような大事な用事=女
そんな方程式が確立されきっているように見える。
そんな所かな。
違うと言っても執拗に聞いてくるに違いない。彼は含んだ笑みを見せながら言った。
「マジっすか! どんな女っすか! ヤッたんすか!」
そうだと言うとがっついてくる。フリーターは興味津々な眼差しで食いついてきた。
彼はふっとすべるような笑みを見せて首を横に振った。
まだ出会って一週間。探りあいだよ。
その笑みのままで言う。するとフリーターは口を蒲鉾型に開いて笑った。
「んな事言ってちゃダメっすよ! ヤレば一気に全部分かるんっすよ!」
フリーター力説。本当にこの男がヤッて相手の事を全部知ったか、怪しいがまあ、説得力と言うか威力はある。
そんなフリーターの言葉に彼はふふっと笑うと仕事の時間だと言いたげにちらっと時計を見て、フリーターに言った。
慌てるなんとかはもらいが少ない、って言う。もっと相手を知ってからでも遅くはないだろ?
「そうっすかねえ」
そうだよ。
納得いかない様子のフリーターをぽん、と彼が軽くその腕を叩いた。
そしてフリーターに、自分に言い聞かせるように言った。
まだ一週間。これからなんだよ……これから相手を知るのが面白いのだから。
「……っと。できましたか」
前を見た彼がうれしそうな笑みを見せた。
「…………」
彼の視線の先には着替えを終えた女性が黙って彼を向いて立っている。
紺色の活動帽に紺色の活動服。活動服の袂から白いワイシャツと青灰色のネクタイ。そして、紺色のスラックスと革靴。
交番に行けば普通に見られる男性警察官とほとんど変わらない井出達の婦人警官がそこに立っていた。
「そうですね……交番でもそんな感じでお仕事してましたね」
活動帽の下の顔を彼が覗き込む。
凛とした表情、厳しく人を寄せ付けない氷山の断崖のような表情の顔。
婦人警官、石橋麻衣子の顔がそこにあった。
「…………」
麻衣子は視線だけ動かし、ちらりと彼を見た。
彼はそんな冷たい視線に臆する事無くにこっと笑ったままで彼女の顔を見つめた。
「もう少し笑ってもいいんじゃないです? あんなにつんけんどんじゃ避けられますよ」
「笑う必要なんかないから。私は警察官だから」
口調は素っ気無い。必要最低限の言葉、感情の動き。
彼は対照的ににこっと笑った。
「警察官でも笑うでしょう。あなたと一緒に交番に立っていたおじさんのお巡りさん。にこにこしながら大学生に話しかけてましたよ」
「あれはあの人がいい加減……いや……」
一瞬、くっと麻衣子の表情が厳しいものに変わる。しかし、すぐに元の表情が戻った。
そんな感情の揺れを恥ずように麻衣子は視線を彼から逸らした。
「あんなのは……あの人くらい。警察官はみんながあんなのじゃない……」
「あんな警察官が増えたら、もっと取っ付きやすくなると思いますよ」
彼が言う。麻衣子は口を軽くへの字に締め、鋭く直線的な視線を彼に横目で向けた。
「警察官に取っ付きやすさなんていらない……警察官はナメられたらおしまいの仕事なんだから」
「へえ」
彼は彼女の顔から離れてゆっくりとその周りを歩き出す。
紺色の活動服に包まれた麻衣子。
合服、夏服と今まで見てきた麻衣子の制服姿に比べてこの活動服の姿には婦人警官、麻衣子がより強烈に浮かび上がっているように見えた。
絶対に負けられない、隙は見せない――紺色の緊張感が制服から滲み出て石橋麻衣子を鎧を纏った戦士のように見せていた。
「そうですよね……警察官は厳しくないと。世の中は引き締まりませんよね。でも……」
彼女の右側に回り込む。
紺色の長袖の二の腕に輝く警察のエンブレム。
誇らしげにも見えるが、同時に虚勢を張っているように見える。
「石橋麻衣子さん、としてはもっと取っ付きやすくなってもいいんじゃないですか?」
「私は警察官だからそんなの必要ない」
横に回った彼に横目で強い視線を向ける。
視線を受けた彼は笑みで細めた目から柔らかな視線を返した。
「そうでしょうか……警察官、じゃなくて警察官、石橋麻衣子巡査、なんですから……」
彼が後ろに回る。ぴくっと麻衣子の全身が硬直したように揺れる。
くすっともう一つ彼が笑う。
「石橋さんは警察官の中でも婦人警察官、婦警さんですから。おじさんの警察官以上にもっと親しみを持てるような警察官に」
「それが余計」
そう言って少しだけ顔を後ろに向け、肩越しに彼を睨む。
「私は女性警察官じゃない……警察官。男も女もない警察官よ。そんな風に見ないで」
肩越しの強い眼差し。
それを顔面に受けた彼がころっと優しい笑みを浮かべて頷いた。
「……可愛いですね」
そんな彼女を見て彼がぼそっとそんな言葉を笑いながら口にした。
「……ふざけないで」
麻衣子の婦人警官然、いや、警察官然とした強い眼差しが飛んでくる。
彼はそれを浴びながら笑ったままで首を傾げて見せた。
「ふざけてませんよ。石橋巡査は本当に真面目で可愛い婦警さんです……制服に着ただけでこんなにも厳しい警察官に変えられるのですから……その制服で女性としての石橋麻衣子を、そして」
彼がそっと彼女の背中に寄り添い、その耳元に口を寄せた。
「万引き犯、石橋麻衣子の弱さまでを完全に隠して警察官に……その健気さが可愛いです」
「いっ……言わないで……」
急に麻衣子の表情に怯えが浮かび上がり、顔を背けた。
ふいっと顔を背ける婦人警官。
やっぱり、可愛い。
彼はそう思ってそっと右手を彼女のスラックスに覆われたヒップに向けた。
「ひっ!」
そうっと紺色の生地の上に彼の掌が乗る。
その瞬間、女性らしい短い悲鳴が麻衣子の口から上がった。
彼は満足げに一つ、笑顔のままで頷いて麻衣子のヒップの稜線をなぞる様にゆっくりと撫で回した。
「石橋巡査、あなたは警察官の前に女性です。ですから……警察官ではなく婦人警察官……女性の警察官なんです」
「違う……違う……」
麻衣子が弱々しく首を横に振る。
彼は左腕で彼女をそっと抱き、口を再びその耳元に寄せた。
「違いません……石橋巡査がいくら男と同じ警察官と思っても婦人警官には変わりないのですよ……どんなに隙を見せない、女性を見せなくてもね」
ちゅっと麻衣子の耳たぶに口付けをする。
「ひあっ!」
ぴくっと麻衣子は全身を震わせてまた声を上げた。
彼は唇の先で麻衣子の耳たぶを撫で、そっと舌先を出してちろちろと軽く舐めた。
「いあ……やめ……なさい……」
彼の口元から耳を離すように顔を軽く左右に振る。
彼は彼女の耳から口を離してくすっと笑った。
「そこ、弱いんですね」
「し、知らないし……あ、あなたに答える必要もないっ!」
芯が通っている口調だが語気は弱い。
麻衣子を抱く左手が彼女の左胸に乗った。
余裕のある作りの活動服は胸のラインなどはかき消している。しかし、彼の手がそこに乗ることで麻衣子の乳房のラインがその手の中に浮かんだ。
彼は活動服のポケットや金ボタン諸共に麻衣子の乳房を強く揉み砕く。
そして、ヒップを撫でていた右手が場所を変え、麻衣子のスラックスのサイドポケットに滑り込んだ。
「くっ! どこ触って……! そんな所……やめな……!」
ポケットに潜り込んだ右手はポケット越しに麻衣子の太ももや秘所を撫でた。
肌触りのよいポケットの内生地からむちっと張った麻衣子の太ももやややざらっとした下着の感触が伝わる。
彼はそんな制服の下、麻衣子自身をゆっくりと撫で回した。
「……くぅ……く……」
麻衣子は口をきゅっと締め、耐えるように目を固くつぶった。
必死に警察官としての自分を保ち続けようと身悶えているように見える。
婦人警官じゃない、警察官として――。
彼は再び顔を彼女に寄せた。
その顔を石橋麻衣子の弱い所、耳たぶに口を近づけた。そして、そっとそれを甘噛みしながら舌の先でつっ、と舐めた。
「くぅあっ!」
その瞬間、麻衣子の喉から鳴き声のような高い声が上がり、がくっと全身から力が抜けた。
「おっと」
力の抜けた麻衣子が彼に寄りかかるように崩れる。
しかし、予想外の大きな反応に彼は受け止めきれず、そのまま麻衣子はゆっくりと床に崩れ落ちた。
「なんで……」
自分でも全身の力が抜けた理由がわからない。
しゃがみこんだまま戸惑いの表情を麻衣子は見せていた。
彼もしゃがんで彼女と同じ目線の高さになると戸惑う彼女を安心させようとするように笑いかけた。
「やっと制服を着たままで石橋麻衣子さんを出しましたね。感じた気持ちを押し殺さないで全身で表してますよ」
「こ……これは……違う、あなたがこんな……」
戸惑いの表情を彼に向ける。彼はそんな彼女の顔に顔を近づけた。
「制服を着たら自分を殺してまで警察官でいる必要はないんです。石橋麻衣子さんの警察官でいればそれで…」
「そんなの……ダメ……私は警察官だから……私を出す事は許されない」
「なぜそこまで自分を押し殺しているんです?」
彼が囁く。麻衣子は戸惑いの表情のままでふい、と顔を背けた。
「……あなたにはわからない……制服をおもちゃのように思ってるあなたには。この制服を着る事、女が警察官でいるにはどうすればいいのかとか……」
視線を彼から背けたまま、吐き捨てるように麻衣子が言った。
その横顔を見つめながら彼は笑ったままで小さく首を傾げた。
「わかりませんね……石橋巡査」
「え」
急に巡査と呼ばれて麻衣子が顔を上げた。その時、
「んっ!」
彼が彼女の顔に自分の顔を迫らせ、そのまま唇を奪った。
「ん……!」
そしてその勢いのまま、麻衣子を床に押し倒した。
「んあっ……や、やめなさい……」
彼から唇を引き剥がし、きっ、と強い眼差しで彼の顔を麻衣子が睨みつける。しかし、その視線に制服を着た直後の冷たさが僅かに薄れているように感じる。
彼がそれを見ながらふふっと笑う。
「……これ以上何かしたら……ただじゃすまない……女だから弱いなんて思うのは間違い……」
彼の笑みを見た麻衣子が右手で活動服の袂を掴み、いつでも起き上がれるように左手を床につけ、足をぴたっと閉じて彼を睨む。
「そんなこと思ってません」
「嘘言わないで!」
少し上体を起こして彼をさらに睨みつける。
「嘘よ……みんな……そう思ってる……女だから私に楯突いたり見下して見たり……同じ警察官なのに……なんで私たちがナメられて……」
「女性が弱いって石橋さんが思っているから、じゃないです?」
「えっ」
厳しい眼差しが一瞬、緩む。彼はまた小さく笑って彼女の制服に包まれた体をゆっくりと撫で始めた。
「女性は弱いって思っているから、女性は見下されたり楯突かれやすいって思ってるからそうされると余計にそう思うんじゃないですか。男性の警察官も楯突かれたり見下されたり、それこそ男も女も関係なく味わっているんじゃないですか?」
「…………でも……」
麻衣子は下唇を軽く噛んで顔を背ける。
彼の手が麻衣子の腰や肩を撫で回しても余り気にしていない様子で軽く考えた。
彼は笑顔を見せて彼女の顔に再び顔を近づけた。
「つんけんどんな対応は石橋さんが警察官だからじゃない、女性だからって強く思っているせいなんですね……女性だから男よりも厳しく、女性だからより警察官らしくって」
「……それは間違ってない……」
「間違えてはいません。でも正解でもないですよ。石橋さんみたいな警察官だらけだったら社会はぴんとした物になるでしょう。でも」
彼はぴたっと手を止めて袂を掴む手をそっと握った。
「万引きに走る人は増えるでしょう。その手でした石橋巡査みたいに、ね」
「…………!」
ぷいっと麻衣子が顔を背けた。袂を掴む手に力が入りその手に皺が集う。
そんな彼女の耳元に彼は顔を寄せた。
「無理して警察官を演じなくてもいいんですよ。僕は石橋さんの警察官を見てみたいです」
「…………」
彼の囁きに彼女は顔を背けたまま何も言わない。
それでも彼は続ける。
「強さと弱さを兼ね備えた石橋さんの婦人警官……絶対にみんなに好かれるし、楯突かれたりすることもなくなりますよ」
「……嘘よ……そんな……私……私は警察……」
麻衣子の声が上滑りしているような調子になる。制服を着たままで警察官としての麻衣子と制服を脱いだ麻衣子とがせめぎ合っているようだった。
彼はさらに続けた。
「制服を着ていない石橋さんは十分に魅力的な女性です。その制服を着ればさらに魅力的になります。女性としてそれを生かして警察官をすれば、婦人警官として街に立てば男も女もない立派な警察官になると思いますよ」
そう言うとちゅっと麻衣子の頬に唇を寄せた。
「警察官と言う身分に自分を押し固めるのではなく、警察官と言う身分を自分に合わせて変えてしまうんです。それだけの魅力を持つ女性ですよ、石橋さんは」
「…………」
麻衣子は何も言わない。
「……あ……ん……」
ある程度の考えがまとまったのか、ゆっくりと彼女が彼を見る。すると彼が今度はその唇に重ね合わせてきた。
しばらく、硬直したように彼の唇を受けると彼からそっと離れた。
麻衣子は真っ直ぐ彼を見ると静かに鼻から息を抜いた。
「……この制服が魅力……私が魅力的……嘘でしょ……」
「いいえ。嘘じゃないですよ」
彼が笑顔で返す。
彼女の表情に笑みはなく、緩んではいるがまだ警戒感や冷たさが強い眼差し。
しかし。
彼の手の中にある活動服の袂を掴む麻衣子の手。
その手の力が少しだけ、抜けているように彼は感じた。
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