2.6月15日

「…………ふうん」

 とあるコンビニの店内。窓際の雑誌コーナーに立って雑誌を手に取らずにただ表紙を眺めている男がいた。

(先月号が置きっぱなし……やる気ないな、ここの雑誌担当)

 彼だった。違う街の自分の勤めていないコンビニにふらっと入ってもつい色々とチェックをしてしまう。
 そんな荒れが目立つ雑誌売り場から目を離し、一つ息を吐くと雑誌には手を伸ばさずに携帯電話を手にした。

「…………」
 
 携帯電話を開いて操作する。
 アドレス帳の先頭に浮かぶ名前。
 石橋麻衣子。
 その下には彼女のメルアドと電話番号が浮かんでいた。
 それを見ると彼はふふっと薄く笑った。そして、そのまま「戻る」のボタンを押して携帯電話を閉じた。

(もう3日……か)

 3日前。彼と麻衣子の「情事」。
 彼にとって楽しくもエキサイティングなひと時。
 それを堪能した後、別れる前に麻衣子と携帯電話のアドレスと電話番号を交換していた。
 しかし、せっかく交換をしたアドレスと電話番号だが、この3日間、彼女から彼に繋げる事はもちろん、彼から彼女にその番号やアドレスに繋げる事はなかった。

「…………」
 
 だが、別段寂しいとかそう言う感情はない。
 つなげない理由ははっきりしている。
 それは――もちろん、用事がないから。
 用事がないのに電話を掛け合うのはよほどの友人同士か、あるいは彼氏と彼女か。
 今の彼と麻衣子との関係はそんな物じゃない。

 今の二人は、そう。
 善良なる一般市民と正義の味方の婦人警官。
 あるいは。
 コンビニ店員と万引き犯。

 いずれにせよ頻繁に連絡を取り合うような関係ではない。 

「…………」

 携帯電話を閉じてポケットに押し込み、瞼を閉じる。

 瞼の奥から浮かんでくる物。
 抵抗するようにもぞもぞと蠢く紺色の制服。
 その姿で婦人警官らしい口調で止めるように言う麻衣子。
 同時に『万引き』の言葉に恐怖すら感じているのでは、と思うほどに怯える麻衣子。
 ぽつり、と吐き捨てるように愚痴をこぼす麻衣子。

 どれが本当の彼女なんだろう。
 この3日、それを思い出すと必ず頭をもたげる疑問。
 婦人警官が麻衣子なのか、万引き犯が麻衣子なのか、ぽつりと隠しもしないで愚痴のような物をこぼしたのが麻衣子なのか――。

 瞼を開く。
 荒れた雑誌棚。
 その奥のコンビニ特有の大きな窓。 
 窓の向こうには数台分の駐車場に面している二車線の道路。

「…………」

 ふと、いつだったかにバイトの大学生が言った言葉が浮かぶ。


「大学前駅の交番にいる婦警、うぜえっすよ」

 何かやったのか? と訊くと、バイトは不満ありありな顔を見せながら口を開いた。

「自転車に乗って走っただけなのに呼び止められて訳わかんねえ事訊かれまくったんすよ〜。どこ行くのとかどこに止めるのとか」

 警察は怪しいヤツを見たら話を聞くのが仕事。よっぽど自転車泥棒に見えたんじゃないか?
 冗談ぽく言う。するとバイトは冗談じゃないと言いたげな顔で彼を見た。

「そんな訳ないっすよ! ったく……絶対男だからって全部怪しいって思ってるっすよ、あの女!」

 そうじゃないだろう。仕事柄仕方なくやってたまたまお前が引っかかっただけだろうよ。
 不機嫌なバイトに彼はなだめるような苦笑いを見せた。
 そんな彼の言葉にバイトは少しだけムッとした口元を見せた。

「でもムカつくっす! 男の警察なら別にどーにも思わないけど、婦警に色々言われるのはムカつく!」

 余程その婦警に疑われたのが気に食わないのか、あるいは職務質問を婦警にされたことが気に食わないのか、バイトは威勢だけはよい言葉を吐いた。
 そんな言葉を聞きながら彼は余裕を持った笑みを浮かべてわざと大きめに首を傾げて見せた。
 そんなにムカつく婦警って……どんなヤツだったんだ?
 彼の質問にバイトは一つ頷いた。

「とにかくムカつく女。可愛くねえ女で……ちょっとスポーツしてそうな感じで……」

 そこからすらすらと出てくるその婦警の特徴に彼はうんうんと適当な相槌を打ちながら聞いた。

 普通ならば聞き流してすぐに忘れ去ってしまうようなバイトの愚痴話。
 箪笥の奥底に何気なく、押し込んでいたハンカチのような、頭に入れていたことすら忘れてしまった話。
 そのはずだった。しかし――。


 彼が顔を真っ直ぐ上げて直線上を見据える。
 駐車場に面した二車線の道路。その向こう側にある少し小洒落た小さめの建物。
 赤いさくらんぼのようなライトと金色の代紋。その横には「大学駅前交番」と書いてある。
 そして、そのそばには。
 通り行く自転車の男子大学生を止めさせて何事かを聞いている婦人警官がいた。

 安全靴のような編み上げのショートブーツ、少しゆったりした紺色のスラックス、腰に食い込む無線や拳銃、警棒などの装備を下げたベルト、空色の半袖シャツ胸から腹を覆う防刃チョッキ。頭には紺色のキャップのような活動帽。そして、その活動帽の下にある顔は――。

(ここに配属されているのか……石橋巡査は)

 引き締まった、凛とした顔。3日前に垣間見た麻衣子の婦人警官然とした顔だった。
 3日前の麻衣子との出会い。それが彼にバイトの話を思い出させるきっかけを与えていたのだ。
 彼は麻衣子と学生をじっと眺めた。
 学生は冗談の一つでも織り交ぜながら麻衣子の質問に答えたり、自分から何かを聞いているように見える。一人で軽く笑ったり、少し大きく首を傾げて見せたりと落ち着かない様子で麻衣子に対している。
 だが、麻衣子は全く対照的。
 学生がどんなに表情を変えようが冗談っぽく何かを言おうが笑顔の一つも、それどころか表情を崩すことすらなく学生に対していた。
 そんな麻衣子の表情や様子は好意的に取れば真面目で厳しい警察官。悪く見れば冷たく人間味の欠く全自動事情聴取機。

(あんな調子なら……あいつもムカつくかなあ)

 麻衣子に一方的な怒りを抱いたバイトの気持ちも少しはわかったように感じる。
 彼は雑誌を手にし、適当にそれを開きながら麻衣子の職務質問を眺めた。

(……終わったか)

 眺めだして数分。学生が自転車に跨ってゆっくりと麻衣子から離れていった。
 ちらりと見えたその顔は思い切り不満げ。痛くもない腹を探られまさぐられ、相当に気分を害しているように見える。
 麻衣子の方は。別段悪いことをしたとか思っている様子もなく、一仕事終えたと言わんばかりに淡々した表情でバインダーに掛けた書類にペンを走らせていた。
 その時、交番から中年の男性警官が現れ、麻衣子に二言三言、声を掛けた。麻衣子はそれを聞くと表情を別段変えることもなく、会釈のような礼を一つ、警官に向けて交番へと消えていった。

(…………)

 ますます彼女がわからない。
 制服を着て勤務に就けば感情に鉄壁の防御壁を置いて完璧な婦人警官として取り付く島さえ与えずに職務質問の対象者に向き合う。
 しかし、3日前の彼女は婦人警官になったり、普通の女の子になったり、万引き犯になったりとぐらんぐらんと揺れ動き続けていた。
 そりゃ、万引きをした負い目もあるだろう。
 しかし、そうなれば別に婦人警官の顔を出さなくても。
 制服の為? あれを着ればそうなるようになっているのか?

(……ん?)

 雑誌のページもめくらずに窓の外を眺めていると交番に動きがあるのが見えた。
 交番のドアが開き、季節はずれのジャンパーを着た麻衣子が出てきたのだ。

(これは)

 コンビニ勤めの彼はぴんと来た。そして、そそっと菓子の売り場へと移動した。
 麻衣子は横断歩道を渡り、道路を横断すると真っ直ぐコンビニに向かってきた。彼女はコンビニに入ると真っ先にレジそばのおにぎりや弁当の陳列ケースの前に立った。

(やっぱりなあ……昼の休憩か)

 警官が制服でお店にやってくれば見回りや職務上の用事。上着を羽織って制服を隠して来れば買い物など勤務外の用事。
 コンビニにいれば自然とわかる事だった。
 麻衣子はここでも表情を変えずにぽんぽんとおにぎり三つを手にし、さっさとレジに向かうと会計を済ましてさかさかと店を出て行った。
 無論、その間にこの店の中にいる彼の存在など全く気についていない。と、言うよりも昼食を買う事以外には何の注意も向いていないように見えた。

(休憩時間を無駄にしたくないのかな)

 彼はくすっと笑いながらそう思い、彼女が立っていた陳列ケースに歩み寄った。

(あそことここに手を伸ばしていたから……)
 
 弁当やおにぎりを適当に眺め、ふふっともう一つ彼は笑うと再び雑誌売り場へと向かった。
 窓の外を見る。
 男性警官が軽くにこやかに自転車やスクーターの学生を見ている。
 その奥の交番に麻衣子の姿はない。奥に引っ込んで昼食を取っている様子。
 彼はくすっと笑うと携帯電話を取り出して操作を始めた。

 件名:こんにちは
 メール:3日ぶりですね。今、お昼ご飯ですか? ここは焼鮭おにぎりが売りですから美味しいでしょうね。3つも食べるのはやっぱり普通のOLさんとは違って体力を使うのですね。

 送信。彼がボタンを押す。
 携帯を閉じてポケットに押し込んで適当に雑誌を手にする。手にして一ページ目に目を通したその時、携帯がびっくりしたように震えだした。
 蓋の液晶小窓には石橋麻衣子の文字。
 彼は開いて届いたばかりのメールを見た。

 件名:Re:こんにちは
 メール:なんでそんな事しってるの? あなたまさかここにいるの?

 彼女が慌ててメールを打って返信した事がわかるように思える。
 彼はくすっともう一つ笑うとまたメールを打ち始めた。

 件名:もちろん
 メール:はい。大学駅前交番の前のコンビニです。全部見させてもらいました。石橋巡査の仕事ぶりもお買い物も。

 送信。ボタンを押す。
 携帯を閉じてポケットに押し込んで手にした雑誌に再び目を通す。勤める店で一回目を通したような気もするが、彼は気にせずに目を雑誌の上に這わせた。
 見開いた雑誌の隅に視線が向こうとした時に携帯が震えた。
 すぐに携帯を取り出す。小窓には再び石橋麻衣子の文字。
 彼はすぐに携帯を開き、メールを見た。

 件名:Re:もちろん
 メール:なんでここにいるの? ここの学生なの?

 大学前の駅は勤めるコンビニの最寄り駅から数えて4つ離れた駅。別段用もなくふらっと行く場所ではない。
 なんでこんな所に。メールの着信を見た瞬間の彼女の驚きや動揺が短い最低限の文言のメールから伝わってきそう。
 彼は笑ったままですぐさまメールを打ち出した。

 件名:いや
 メール:学生じゃないですよ。

 送信。
 雑誌を開こうとすると跳ね返ってきたようにメールの返事が来た。

 件名:Re:いや
 メール:なにしに来たの? なにか用があるの?

 彼は笑ったままで再びメールを打つ。

 件名:用は
 メール:あるような、ないような。なんとなくかな。

 送信。送信完了の文字をふふっと笑いながら見つめる。
 彼は携帯をしまわずにじっと見つめ続けた。すると、その目の前でメールが着信した。

 件名:Re:用は
 メール:ふざけないで。用があるならそれだけ伝えて。
 
 婦人警官、麻衣子の打った文章。
 彼はそう感じてにやっと笑ってメールを打った。

 件名:本当の用は
 メール:石橋巡査に用があったんです。

 送信。用の内容までは打ち込まずに送信した。
 もちろん、それは彼の考え。すると思ったとおりに直ちに返事が来た。

 件名:Re:本当の用は
 メール:私に何の用? まさか三日前みたいな事じゃないでしょうね。

 つんけんどんな内容。しかし、なんとなく強烈な警戒感や若干の怯えのような物も感じられる。特に最後の方。
 彼は笑顔のままでメールを打ち返した。

 件名:違います
 メール:ただあなたに会いたかっただけです。姿を見られるだけでいいから、会いたいなって。

 送信。
 …………。
 なぜかこのメールを打ち返した瞬間、妙に心臓が激しく脈打った。
 会いたい、その単語を打っただけで妙に心が揺さぶられて体温が軽く上昇したように感じた。

「不思議、だな」

 彼が呟く。そして黙って雑誌に目を通しだした。
 …………。
 不思議なことは続いた。
 麻衣子からの返信がなかなか来ない。さっきまではテニスのラリー、いや卓球のラリーのようにぽんぽんとメールが道路の上を飛び交ったがこのメールの返信だけはなかなか来ない。
 交番内で何かが起きたか、トイレにでも入ったか、返事に窮しているのか。
 その答えは――色々と考えていると返信が来た。

 件名:
 メール:困ります。勤務中だから。すぐ帰って。

 追い払おうとしている文章だがなぜか彼の心に除外された疎外感や自分に向けられる敵意を感じられなかった。
 彼はくすっと笑うとメールを打った。

 件名:じゃあ
 メール:ゆっくりと会えるお休みは次、いつですか?

 送信。
 今度は彼女からの返信を待つ時間、妙に胸が高鳴った。
 そして、それほど離れていない時間。彼の携帯が震えた。

 件名:
 メール:明後日なら。ホテルじゃなくて普通に食事をしましょう。

 麻衣子の返信に彼はふふんと笑った。そして、またメールを打った。

 件名:わかりました
 メール:明後日に会いましょう。時間と場所は前に会った時と同じで。でも、服装は変えてきてください。

 送信。
 彼はそのボタンを押すと携帯を折りたたんでポケットへ押し込んだ。
 そして雑誌を棚に戻してコンビニを出た。

 もうここにいる必要はない。
 麻衣子の勤務姿も見られたから当初の目的は達せられていた訳だから。
 それよりも。明後日と言う事は18日。
 シフトがどうかはわからないが、そんな物どうとでも調整はつく。 
 
 コンビニを出て駅に入って電車に乗って。
 四つの駅を飛ばして降りる駅に到着。電車を降りてコンビニへと向かう。
 その間、携帯は全く震えることはなかった。
 しかし、彼は不安に思ったりせずににこにこっと笑っていた。

 何の返信もない。
 それが麻衣子の承諾を示す返信。
 そう、思えたからだった。


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