1.6月12日−駅〜部屋−


(本当に……来るかなあ)

 露のややどんよりした雲の下、コンビニ店員の彼は駅前にあった。
 その駅は彼のコンビニがある街から普通電車で数十分かかる場所。町境どころか県境すらも越えた所にある街だった。

(でも、こんな遠くに待ち合わせ場所を指定したんだから……)

 ふむ、と一つ息を吐いて落ち着かない様子で空を気にしたり腕時計を見つめたりした。

「……あの」

 その時、彼の背後からぽつんと女性の声がした。
 彼は慌てて振り返って見るとシャツにハーフパンツと言う装いで黒い髪を肩の上で切りそろえたショートカットとやや地味な装いの女性が立っていた。
 その手にはまるで一泊旅行にでも出るかのような大きな鞄。
 それを見た彼はほっとしながら小さく笑った。

「待ってましたよ、石橋さん」

 彼の笑顔に対して彼女は硬い表情のまま。俯き加減でちらりと警戒感ありありな視線で彼の顔を見た。

「……やめましょう……こんな……」
「……まあ、行きましょう。レンタカー、借りてきましたから」

 彼はそう言うとポケットから車の鍵を取り出した。彼女は初めて顔を上げてはっとした表情で彼を真っ直ぐに見据えた。

「ど、どこに……」
「立ち話もなんですしね……それに、重い荷物を持って歩き回るのも大変でしょう」

 どことなく表情が失せている彼女に対して彼はにっこりと笑い続けていた。
 コンビニで見せるような商売用の笑みではない、心底今を、そしてこれからを楽しもうとしているような自然な笑みを。


「来てくれるか半々だと思っていましたけどね」

 駅のそばの駐車場から一台のコンパクトカーが出る。その運転席には彼が、そして助手席には彼女、石橋麻衣子が座っていた。
 座席に座った麻衣子は彼の言葉にも無反応。俯いたままで口を真一文字に閉めている。そんな麻衣子を横目でチラッと見た彼はもう一つ笑ってハンドルを握り直した。

「でもちゃんと来てくれた……僕のお願いしたとおりに準備して」

 彼の視線が彼女の足元に置かれた大きな鞄にちらっと落ちる。その瞬間ぴくっと彼女の肩が震えた。

「あの……今ならまだ……何もなかったことにできます……やめましょう……」

 麻衣子は彼を上目遣いに見る。その弱々しく明らかな動揺を見せる姿は捕まった万引き犯をそのまま引きずっている。だが、その様子のままで説得を試みる姿は不良学生を諭そうとする婦人警官の姿。
 そのアンバランスな麻衣子の姿に彼はふふっと笑って深く息を吐いた。

「今はまだ無理ですよ。あの時見たでしょう」
「…………」

 彼の言葉に麻衣子は黙り込んだ。彼は優しい笑みを向けたままで続けた。

「確かに今ここで全部を終わらせる事はできますよ。石橋さんは商品を返したし、僕も警察には言わなかったし。僕と石橋さんが忘れれば何もなかった事にはなります。でも」

眼前の交差点の信号が黄色に変わる。彼はゆっくりとブレーキをかけ、停止線手前できっちりと車を止めた。そして軽く顔を麻衣子に向けた。

「お店の防犯カメラ。あれにしっかりと石橋さんが商品を盗む様子が映っているんです。そのビデオが消去されない限りは何もなかったことにはならない」
「…………」

 じゃあ、早く消して。
 麻衣子はそう言いたげな視線を向ける。その言葉を口に出さないのは、

「ビデオは一ヶ月間、保存しないといけないってあなた達警察からお願いされているんです。だから今すぐに上書きして消去する訳には……いかないんですよ」

 言っても無駄だということがわかっているからだった。彼女は小さくこくん、と頷く。
 彼はそんな彼女を見据えたままで続けた。

「もちろん、この六月十日のビデオには万引きが写っていると言わない限りバレる事はないでしょう。でも、何かの拍子でビデオが……」
「いいです」

 ぽつんと麻衣子が言う。彼女はゆっくりとやや色を失せさせた顔を彼に向けた。

「それはいいです……やった私が悪いのですから……ここでこうして呼ばれてお会いするのも構いません。でも……でも……」

 また麻衣子は俯いて足元に視線を向ける。

「これは……これはいけないことなんです……あなたが思うほどに簡単で軽いことじゃない……場合によっては重い……」
「万引きよりかはマシでしょう」

 彼女の言葉を彼の言葉がさえぎる。彼女はぴくっと肩を震わせて下唇を噛んだ。

「……そう……ですけど……」
「石橋さん、あの時僕が提案したことと万引きを石橋さんは一度天秤にかけたはずです。そして、この方が軽いと判断してこうして準備してやって来た。そうですよね?」

 麻衣子がこくんとためらいがちに頷く。彼はふっと笑った。

「僕はこうしろ、なんて命令はしてません。こうしてほしい、とお願いをしただけでそれに石橋さんが答えた。そうですよね?」
「…………」

 彼女は何も言わず俯いたまま。あの夜の気の迷いを心底悔いているように見える。
 ちょっと可哀想かな。でも、彼女の為にもなっているのだ。悪いことをすれば当然の報いを受けると。
 信号が青に変わる。
 彼は丁寧にアクセルをふんでふんわりと交差点に車を進入させた。

「……どうして……」
「ん?」

 麻衣子は不安に怯えるような表情を浮かべ、ハンドルを握る彼を見た。

「どうしてこんな事……お金を払うとかじゃなくて……」
「だって」

 彼は口元にくすっと笑みを浮かべてちらりと彼女に視線を向けた。

「石橋さんが婦警さんだから、ですよ。婦警さんとの出会いなんてそうはないですから大切に生かさないと、ね」

 悪戯っぽく笑みを浮かべる彼に麻衣子は深くシートの背もたれによりかかり絶望を感じたように目を閉じた。

 それから車は町を少し離れて郊外に出た。
 郊外に出るまでの十数分。麻衣子と彼の間に会話はない。カーラジオも何もつけず車のエンジン音だけがやけに響く。
 彼はちらっと彼女を見た。
 彼女は軽く下唇を噛み、鞄の持ち手をきゅっと強く握ったままで俯き加減に座っている。
 今どこを走っているのか、どこへ向かっているのかそんな事を全く興味も関心も持たず、ただ大切何かを守ろうとするように自分の中に閉じこもって防御姿勢をとっているようだった。

「……休んでいきましょうか」

 彼はぽつりと言ってハンドルを切った。
 麻衣子ははっとして初めて顔を上げた。
 彼女は一軒のラブホテルの駐車場へと入っていく景色をその目に写した。

「さて」

 受付を済ませて部屋に通された彼はドアに鍵を掛けて数歩、部屋の中へと入っていった。

「…………」

 麻衣子は入口の前で黙って立ち尽くしている。両手で大きな鞄の持ち手を握って。そんな彼女に彼は振り返った。

「一応、見せてください。約束したもの、持ってきたのかどうか」
「……本当に……本気?」
「ここまで来て冗談は言いませんよ」

 彼女の最後とも言えそうな呼びかけを彼は笑顔で受け流した。麻衣子は浅いため息をひとつつくととん、と鞄を床に置いてためらいがちにゆっくりとそのジッパーを開けた。

「……おお……本物だ……」

 鞄の口が開いて中から顔を出したもの。
 白色のワイシャツ、紺色のベスト。ネクタイと白い手袋、そして、丸い独特の形をした婦人警官の制帽と一足の黒革のパンプスだった。
 彼はこくんとひとつ唾を飲み込むとそっと制帽に手を伸ばした。フェルト地のような手触りに硬い感触。まだ生え揃っていない、柔らかな髪の幼子の頭を撫でるような感覚を覚えた。
 制帽の下には黒光りするパンプス。軽く使い込まれて足の指辺りに僅かな横皺が刻まれている。彼はそれを持つと突っ立ったままでこちらを見下ろしている彼女に掲げるようにして見せた。

「これを履いていつもお仕事しているんですか?」
「……いつもは普通の黒いスニーカーとか履いてる……」
「味気ないですねえ」

 にこっと彼が笑う。

「わ、私たちは見られる為に外に出ている訳じゃない!」

 急に麻衣子の口調が強くなった。彼は少しだけ笑顔を引き締め、それでもまだ笑顔だが、会釈程度に頭を下げた。

「気に障ったみたいですね。そうですよね……お仕事で街に出ているんですよね」

 そう言いながらそっとパンプスを床に置き、彼女を横目で見上げた。

「市民の安全を守る為、万引きや泥棒を逃さない為に……ね」
「…………」

 彼の言葉に麻衣子はきゅっと下唇を噛んで彼から顔を背けた。
 彼はさらに鞄の中を見る。
 丁寧に畳まれたシャツ。紺色の襟章に右袖のエンブレム。左胸に輝く銀地の階級章が美しい。
 その下からは紺色のベスト。

「いいんですか? 明日のお仕事に支障を来しませんか?」
「それは秋用……署に夏用のベストがあるから……」
「そう。じゃ、安心ですねえ」

 飾りも何もない素っ気ないデザインに階級章が賑々しい。彼はそんなベストを愛しそうに撫でた。そして、その下には。

「ああ、スカート。よかった。最近ズボンの婦警さんばっかりだからもう持ってないんじゃないかなって心配してたんです」
「…………たまには穿くから……」
「もっと穿いてほしいですねえ……じゃあ」

 一通り制服を見て触ると彼は小さく笑みを見せながら俯く彼女を見上げた。

「着替えてください」
「……こんな……こんな事で……これは普通の服じゃないんですよ。制服です。警察の……遊びで着る物では……」
「…………」

 麻衣子が最後の最後の抵抗を見せる。しかし、彼はそれに何も答えず、ただ笑みを見せて彼女を見ていた。麻衣子が自分から制服を手に取るのを待つように。

「…………」

 沈黙の会話が続く。しかし、麻衣子が先に根負けして諦めにも似たため息を一つ、ついた。そして鞄の持ち手を持ってそばのバスルームに向かおうとした。

「あっと」

 鞄を持ち上げようとした彼女の手を彼が遮るようにして触れた。

「えっ」

 諦めてくれる?

 僅かな淡い期待が彼女のきょとんとした顔に浮かんだ。

「ここで着替えてください。僕の目の前で、ね」
「!」

 麻衣子の目がかっと見開かれ、顔色がさあっと失わされた。

「ふ、ふざけないで下さい! そんな……そんな事……せ、制服を勤務以外で着ることだけでも酷い事なのに……!」
「見たいのですよ。着替えを」

 彼は悪戯っぽく笑ってうろたえ気味の麻衣子を見た。

「そんな……出来るわけない……人前で着替えなんて……」
「別に大観衆の前で着替えろと行っている訳じゃないです。ここには貴方と僕だけなんですし。それに、素っ裸になってって言ってるんじゃないですしね」
「でも……いくら見たいからってなんでそんな……」

 失った顔色が赤く染まり出す。彼は笑顔のままでゆっくりと立ち上がってそっと彼女の耳元に顔を寄せた。

「だって普通は見られないでしょう。万引きした普通の女の子が婦人警官に変わっていくところなんか、ね」
「…………!」

 麻衣子の顔が再びはっとなる。 
 今の麻衣子は婦人警官だがそれよりも前に万引きをした普通の女。
 その事実を前にされては婦人警官もなにも関係ない。
 彼女の選択肢は。既に道標は立っていた。
 彼が目配せのような視線を送り、そっと麻衣子から離れてちょうど彼女の全身を見ることのできる位置にしゃがんだ。そして目の動きで制服を指し示した。

「…………」

 麻衣子はふと弱ったような眼差しを彼に一瞬、向ける。足下の制服にも目をやる。丁寧に畳まれて鞄に収められていた制服だったが、鞄から出されて乱れている。

「…………」

 唇を僅かに開け、息を一つ吐く。そして制服に眼差しを向けたまま、神様に祈るように目を閉じた。

「…………」

 息を止め、きゅっと両手に一度軽く拳を作って。麻衣子は静かに着ているシャツのボタンをゆっくりと外し始めた。一つ一つ、上から丁寧に。

「…………」

 その手元を見つめる彼の顔には嬉しそうな笑顔。その笑顔に女を求めるいやらしさはなく、さわやかさすら見られる。

「…………」

 ためらいがちにゆっくりと外していき、ついに最後のボタン。麻衣子はここで一度手を止めてちらりと彼を見た。彼は相変わらずの笑顔。手を止めても怒り出したりいらだったりする様子もなく、清々しいほどの笑顔を向けていた。

「…………」

 早く脱げよ! とか強く言われるよりもその笑顔を向けられている方が恐ろしく強く彼女の動き促すように感じる。
麻衣子は最後のボタンをゆっくりと外した。

「…………はあ」

 一つ大きく息を吐く。麻衣子はくん、と一つ唾を飲み込むと、シャツを左右に割り、肩から滑らせるように脱いだ。
 丸い肩。露わになる肌。ノンスリーブのインナーで胸は隠れているがきゅっとくびれたお腹やかわいらしいおへそが露わになる。
 シャツを脱いだ麻衣子を彼は変わらぬ笑顔で見ていた。にこにこと楽しいアニメを見ている子供のような、そんな笑顔で。
 麻衣子は脱いだシャツをそっと床に落とし、制服のシャツを拾い上げると一度間を置いてから袖を通していった。
 彼女の腕とシャツの袖が擦れる音がやけに響く。

「…………」

 あらわになっていた肌が再び白いシャツに覆われ隠れてゆく。彼女の制服を着る動きは脱ぐ時よりもさらにためらいがちで着難そうに見えた。

「…………」

 そんな麻衣子にも彼は文句一つ言わず、相変わらずの笑みを見せながら見ていた。何を思い、何を考えて女性の着替えを見ているのか。麻衣子にはさっぱりわからない。
 袖に腕が通る。
 麻衣子の手がボタンにかかり、一番上からつんつんと掛けていく。その動きにためらいはなくすぐにボタンが全てかかった。

「……はあ」

 麻衣子はここで一つため息をついてちらりと彼を見た。
 彼は笑っている。続きは? と言って催促しているかのような笑顔。

「…………」

 彼の笑顔に押されるように麻衣子の手がデニムのボタンに伸びた。ぴたっと腰に密着するデニムのボタンが外され、ゆっくりと脱いでいく。
 濃いブルーのデニムが彼女の足から剥がれ、腕と同じように太もも、膝頭、脛と徐々に露わになっていく。だらんと裾の伸びた制服のシャツが麻衣子の下腹部を隠すが、デニムを降ろす為に足を動かすとちらちらとあまり色気のないパンティが見える。

「…………」

 彼女はそれを隠そうとしない。制服を着ることだけに集中し、彼の視線の存在を彼女自身の中で消しているようだった。
 スカートを手にする。彼の方を一瞥もせずに麻衣子はすっとそれ足に通した。脛、膝、太腿と脚をスカートが通り抜け、下がった白いシャツのすそを覆い、ベルトを腰の部分でその動きが止まった。

「…………」
 
 麻衣子は何も言わずに視線を腰に落としてスカートのホックを掛ける。ホックを掛けるとスカートの向きを合わせ、ベルトを腰に回した。
 軽い金属の音を重ね、ベストが引き締められていく。腰に巻きつき、きゅっとした女性特有の腰の括れを作るベルト。バックルに輝く桜の代紋がまぶしい。
 ベルトを締めると麻衣子はふっと一つ息をまとめて吐いた。そして次に鞄の中にあるネクタイを手にした。
 シャツの襟を少し上げてネクタイを回し、手際よくネクタイを締めていく。時折、ちらりちらりと壁に視線を送るのはいつもの更衣室ならばその位置に鏡があるからか。ネクタイを結び、しゅっと一気に襟まで締めると上げた襟も元に戻していった。
 紺色のスカートに白のシャツ、ネクタイ。それだけでも立派な婦人警官。しかし、まだパーツは残っている。

「…………」

 麻衣子はちらっと彼を見た。

 もういいでしょ?

 そう言いたげに。しかし、彼は笑顔を変えず、動いたり何かを言ったりしないでただ未完な婦人警官、麻衣子を見ていた。
 麻衣子は彼から視線を切ると鞄の中のベストを手にした。スカートと同じ紺色。その中に斜についている階級章が夜空の三日月のようで美しい。
 彼女はベストのボタンを外し、右腕からそれに通した。手早く両腕をベストに通して着込み、金色の三つボタンをかける。

「…………はあ」

 麻衣子はベストまで着込むと大きなため息をついた。視線を落とし、一度目を閉じる。

 何をしているんだろう、私。

 そんな自分への呆れともこんな事態を招いた過去への悔いともとれそうな仕草。
 しかし、そんな彼女の仕草も彼にとっては演出の一つにしか見えていない様子。相変わらずの笑顔を見せて彼は彼女を見ていた。

「…………」

 鞄に目をやる。残りの婦人警官のパーツは制帽と手袋と黒革のパンプス。
 麻衣子はその場にかがみこんでパンプスを手にした。甲の部分の革に真っ直ぐ横に刻まれた皺が使用感を漂わせる。
 そんなパンプスに右のつま先から足をそっと滑り込ませ、足に革を纏わせていく。指をパンプスの踵に入れて最後の一押し。かぽん、踏みつけるように踵がきっちりとパンプスに収まった。
 同じように左足も履く。麻衣子の両足に黒革がぴたっと張り付いた。
 パンプスを履き終えた麻衣子はそのまま制帽と手袋を手にしてゆっくりと立ち上がった。

「…………」

 制帽と手袋を軽く見つめながら麻衣子は制帽を小脇に抱え、真っ白な布の手袋をはめ始めた。手を軽く結んだり開いたりしながら手袋に手を入れていく。ぴん、と白い布が張って彼女のそれほど大きくはない手を柔らかい布が包み込んだ。
 そして、仕上げ。
 制帽を手にし、向きを確認するように見るとそうっと頭にかぶせた。
 向き、深さ、被り方。今まで身につけてきた制服以上に気を使って制帽を被った。

「…………はあ」

 全てが完成した瞬間に麻衣子はもう一つため息をついた。

「やっぱり本物は違いますね。よく似合ってます」

 ようやく彼が笑顔を見せて口を開いた。
 彼の目の前には制帽、紺色のベストに白いシャツ、ネクタイ、白い手袋、紺色のスカートにパンプスを履いた完全な姿の婦人警官が立っていた。いや、中身も本物の婦人警官。完全無欠の婦人警官がいた。
 麻衣子は彼がそう口にした瞬間、恥ずかしそうに俯いた。
 着替えを見られたときよりも、パンティを見られたときよりも恥ずかしそうに。
 そんな彼女を彼はくすっと一つ笑いながら見つめてやや上目遣いで俯く彼女の顔を見た。

「そうだ。あれをやってください。敬礼って言うの」
「え」

 はっとしたような顔を見せて顔を上げる。そこには彼のにこにこっとした笑顔があった。彼はその表情で続けた。

「その格好にはそれが一番似合うでしょう」
「ふ、ふざけるのもいい加減にして! 敬礼はただのポーズなんかじゃないのよ!」

 急に麻衣子の口調が強くなった。まるで婦人警官の制服に力を与えられたかのよう。麻衣子の急変にも彼は動じる様子もなく、むしろそれを期待していたように満足げな笑みを口元に浮かべてゆっくりと立ち上がった。

「わかってますよ……ただ、石橋さんが婦警さんなのか、本当に石橋巡査なのかを見たいだけなんですよ。その制服、その辺歩いている万引きした女の子が着たってその子は婦警さんに見えますしね……」
「…………!」

 万引き。その単語が碇のように彼女の心を留め置かせる。
 どんな荒波、暴風の抵抗があっても役に立たない。それを出されると彼女がとるべき道は一つしかないのだから。
 麻衣子は一度俯いて下唇を噛むとゆっくり顔を上げた。
 そして、背筋を伸ばし、右手の肘から指の先までぴしっと延ばすと、ゆっくりと上げてこめかみの辺りに指の先を添えさせて挙手の礼を取った。

「本物の婦警さん……ですね」

 ほう、と彼は一つ息をつくとゆっくりと立ち上がって彼女に歩み寄った。

「な、何……」
「そのままで」

 反射的に迫る彼から逃れようとする麻衣子。しかし、彼はその動きを止めさせ、敬礼をする彼女のそばまで近付いた。

「いいですね……敬礼する婦警さん……真面目で格好いい婦警さん」

 紺色の優美な曲線を描き、複雑でラビリンスを思い浮かべさせる制帽のつば。頬を高潮させ、黒のショートカットの髪に肌を浮かべさせる顔。先端まで白い手袋に覆い尽くされた手。その手がちょうど制帽と重なって紺と白が絶妙のコントラストを見せている。
 純白のシャツ、無数に走る皺、二の腕のエンブレム、紺色のベスト。飾り気も露出もない衣装。だがとてもその姿には色気があり、男としての衝動が突き動かされるようだった。
 きゅっといくびれた腰に紺色のスカート。肌色の足に黒のパンプス。
 ただ立っているだけでも綺麗な婦警さん。その婦警さんが敬礼をしている。

「いいですね」

 舐めるように麻衣子を見る彼がぼそっと彼女の耳元にささやいた。

「…………」

 麻衣子は彼の視線とその言葉に軽く背中を振るわせた。
 敬礼はいつもする挨拶のようなもの。視閲の時は緊張もするがそれほどやっていて意識はしない。しかし、今のこの敬礼にはどうしようもない恥ずかしさがあった。
 彼は正面から横、後ろへと回る。
 敬礼をする婦人警官の後姿はまた美しかった。ぴんと伸びた背筋、肘を上げたその格好から腰の括れや胸の膨らみが見えるようだった。

「……そう言う事なんですね」

 後ろからそっと歩み寄った彼がまたささやく。

「な、何……?」

 敬礼の姿勢のまま、麻衣子は不安げに顔を傾けて肩越しに彼を見ようとした。しかし、彼女の視界に彼を捉えることはできなかった。

「今まで理解できなかったのですけど……わかりましたよ。痴漢の人の気持ち」
「え?」
「『むらむらして思わずやってしまった』……そうか。こう言うのを言うんですね」

 僅かに彼女の視界に捕らえた彼の顔。
 それは彼の口元に浮かんだ笑みの断片だった。
 そして。
 それを捉えて彼がそう言った瞬間、彼の手が麻衣子へ伸びた。


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