序・6月10日
「…………」
「…………」
日付が変わってしばらく経った、とある住宅地の隅にあるコンビニ。店員もお客も最低限しかおらずBGMと蛍光灯だけが嫌に五感を刺激している。
そんな店内から壁一枚隔たれた事務所。狭く細長い上に在庫が置かれてさらに狭く感じるそこは店内と対照的に静かで重い時間が流れていた。いや、流れているようには感じられない。流れが滞っているように感じられた。
「……これだけ……じゃないでしょ」
コンビニのユニフォームを着た男が上目遣いに、聞きにくそうに困り笑顔で言う。彼の目の前にある机にはお店の商品であるコスメが一点とドリンク剤が一点置かれていた。
そして、商品と机越しには。
うなだれて椅子に座る女性がいた。彼の言葉に彼女は無反応。だが、その無反応に彼は不思議と腹が立たなかった。
「……あと文具の所でも……消しゴムかボールペンくらいも入れてませんでした?」
彼の言葉にぴくん、と彼女の肩が揺れる。彼女はややぎこちない動きで机の上にあるハンドバックに手を入れると中から消しゴムを出して置いた。
別に彼を無視している訳ではない。彼の言葉を聞いて反応するだけの余裕がないだけなのだ。彼は鼻からため息のように深く息を吐いた。
「それをカゴに入れてレジに持っていけばこんなにはならなかったのに……鞄に入れて出て行ったからこうなるんですよ……」
「…………ごめんなさい……」
消えそうなくらいの細く震えた声。それを聞くと彼はもう一つため息をついて俯く彼女をしげしげと見た。
どうにも気になる。
彼の率直な思いだった。
万引きを捕まえて事務所に連行すると大抵、二通りの対応を犯人は取る。
ふてくされたように横柄に謝りもせず開き直るか、ぐだぐだに泣いて崩れながら謝るか。
彼女がどちらかの態度を取ってくれれば彼も対応しやすいのだが、彼女に関してはどちらにも該当していない。
彼女は泣いていない。俯いて声は震えているが泣いてはいない。かといって開き直っているようにも到底見えない。
そんな様子で謝っている。謝ってはいるが、気のせいかそれはこのお店に向かっていないように感じる。
そして何より。お店の外で彼女に声をかけた瞬間から今に至るまでの彼女の表情や態度。
まるでこの世の終わりが到来したかのような絶望と恐怖の入り混じった顔。強大な何かに恐れおののくように震える肩。
芝居でできれば相当な名優だと思えるような姿。
手口から見て初犯で初めて捕まったのは明白でその動揺か。それにしては余りにも深刻な様子。
何かあるのかな。
「……わかりませんねえ……」
思わず彼が呟く。首を捻ったままで事務机の上の書類とボールペンを手にした。
「……あの……ゆ、許してください……」
ぽつりと彼女が言う。事務所に連行されて初めて怯え慄く顔を上げて。そんな彼女の顔に彼は何も言わずに浅いため息をついて手にした書類とペンをテーブルに置いた。
彼女は続けた。
「その……出来心なんです……仕事でストレスがたまって……」
「それが原因なら日本人のほとんどが万引きに手を染めますよ」
優しく、しかし真っ直ぐに彼が言う。その言葉に彼女はあっ、と口をあけて言葉を詰まらせた。
彼はそんな凍りつく彼女の顔を見て続けた。
「どんな理由付けをしようとも万引きを正当化することはできません。小学生ならともかく、立派な大人なんですから、わかりますよね?」
「……はい……すみません……あ、あの……」
一瞬俯いて謝った彼女。ところがすぐにまた顔を上げて彼を見た。
「警察には……言わないでください……お願いします」
すがるような表情で言う。彼は目元に笑みを見せながら口をへの字に曲げ、やや哀れむような目で彼女を見た。
「じゃあ、ご両親に来てもらう? その歳で」
「あ、そ、それも……お願いです。誰にも……誰にも言わないで下さい。あの、お金は払うので……」
「あのねえ」
万引きがよく言う問題の解決方法。しかし、そんな物は聞き飽きている彼が柔らかな調子を解き、ペンを軽く叩きつけるように置いて呆れた調子と軽い怒りを帯びた目を向けた。
「あなたは犯罪をしたの。わかってますよね? 犯罪が起きたら警察か責任ある所に言うって小学生でもわかるでしょ? それに、代金を払えば許してくれるって発想も間違っています」
真っ直ぐ見る彼の視線に彼女のすがるような瞳が徐々に光を失って弱まっていく。まさに絶望を全身で感じている様が彼の前で展開されていた。
そんな彼女に彼は続ける。
「万引き、いや、窃盗には最近罰金刑ができたって知ってますか? 三十万円以下の罰金。普通の買い物と同じだけ払って許してもらおうなんて……」
「あ、そうだった……じゃあ、さ、三十万円払えば許して……」
「あのねえ……そう言う問題じゃないって」
呆れて物も言えない。彼は嘲笑のような笑いを吐き捨てるように口から出した。
「犯罪を起こしたら起こしただけの事をお店じゃなくて世間様に償わないといけない。わかってるでしょ?」
「はい……でも……なんとかこの場で収めてください……お金も払えるだけ払います、それが足りないなら……その……なんでもしますから……お願いです……お願いします!」
「だからねえ……」
彼は大きくため息をついて頭を下げる彼女を見つめた。
彼女はどんな事をしてでも自分の犯した過ちをこの場だけで収めたいと思っている。なぜかは知らないが。
ただ、そう言う風に必死になる万引き犯は見たことある。
「……中学生じゃあるまいし」
思わず呟いた一言。初めて万引きに手を染めた真面目そうな中学生程度の子供がこんな風に必死になって、なんとしても誰にも知られないように収めようとする。
学校には言わないで、親に言わないで、と。
だが、目の前の女性は、確かに今時髪も染めず地味で真面目そうであるがどう見ても成人。何をそこまで恐れるか。
彼はふと、諭すような目で彼女を見るとペンを手にした。
「あなた、初めて万引きをして初めて捕まったでしょ? ここでもし、僕が許せばこの程度ですむのかって思って常習犯に成り下がってしまうかもしれません。でもね、厳しいようだけどここで強く制裁を受ければ二度とこんな目に遭いたくないって思ってしなくなるでしょ?」
「…………」
彼女が黙って俯く。馬鹿なことを言っていたと反省しているのか。
ひとしきり言うと彼も感情が収まったのか彼女を見る目が冷静なものに変わった。
「……まあ、三点の万引きで呼ばれる警察も大変かなあ」
「そ、そうです……」
「あなたに言ってる訳じゃない……もうこれ以上はないだろうね……ちょっとかばんの中、見せてくれる?」
「えっ、あの……」
彼女の顔が急に動揺の浮かぶどぎまぎしたものになり、手にしていたバックを守るようにぎゅうと掴んだ。
「なんかあります?」
「いえ、もう盗った物はこれだけでかばんの中には……」
「じゃ、中見せて。見せてくれないなら警察を呼んで見せてもらうようにしないと……」
「…………」
彼女は観念したようにゆっくりバックを解放して差し出した。彼はやや遠慮がちに、しかし手早く受け取るとそれを開けた。
「えっと……」
バックの中はずいぶんすいていた。ハンカチや財布、携帯電話。普通の女性が持つような必要最低限の物しか入っていない。彼はバッグの奥を見ようと手を入れて軽くまさぐった。
「あっ! それ触らないで!」
彼がバッグの奥にあった黒い二つ折りの物体に触った瞬間、突然彼女が叫ぶような声をあげ、彼の手首を掴もうとした。
「わ!」
いきなりの彼女の動きに彼は驚き、反射的にバックから手を抜いた。
すると、触っていた黒い物体がバックからこぼれて床に落ちた。
「……え?」
そしてそれがぱくっと開いて内側を彼と彼女に見せた。
「あ…………」
彼女の顔に今までよりも深い絶望が浮かぶ。
開いたそこには。金色のエンブレムと今とは全く違う凛とした表情で紺色の制服に身を包んだ彼女の写真があった。
「……警察……官?」
唖然呆然愕然。
衝撃の大きさに今まで浮かべたことのないような表情を見せながら彼がそれ、警察手帳を拾い上げて女に顔を向けて訊いた。
彼女は絶望に打ちひしがれた様子で小さく頷くと全身から力が抜けたようにがっくりとうなだれ、両目からぽろぽろと涙をこぼし始めた。