−3−
数日後。彼女の銀行口座にバイトの給料が入っていた。
「……よし」
ATMの前で彼女がその数字を見ると一つ頷き、すぐに預金の引き出しのボタンを押した。
普段入れる額よりも多めの額のお札を財布に入れた彼女はそのまま家に帰らず、いつも彼とのデートでウィンドウショッピングをする街へと向かった。
さらに数日後。
世はクリスマスの夜。クリスマスソングが機関銃のように間断なくどこででも流れ、イルミネーションの瞬きも輝きも最高潮。日本列島全てがクリスマス色に染まりきっていた。
「…………」
彼女はいつもの待ち合わせ場所にいた。いつもの場所、いつもの時間。いつも通りなのにまるで落ち着きがなくそわそわきょろきょろ。
「……早く来ないかなあ……」
ふと、間を持とうとするように携帯電話を取り出す。
「……今日に限って……」
操作してメールボックスを開ける。そこには彼の「ごめん、10分ほど遅れる」の文字。
まるで神様からこの落ちつかない気分をもっと味わっていろと命じられてじらされているように感じた。
携帯電話を閉じてバックに押し込む。
待ち合わせ場所の前を無数の人がせかせか流れる。クリスマスの夜だけあって普段よりも人通りは相当に多い。
「………………」
彼女はそんな大勢の人に自分が注目されているように思い、軽く視線を下に向けた。
いつもの場所にいつもの時間。しかし、全てがいつも通りのデート前かと言えばちょっと違う。普段ならしない、する事など考えもつかないような装いでこの場所に立っているのだ。
もちろん、この装いをする女性は世の中にはごまんといるだろう。しかし、この装いをする自分はただ1人。
へー、気合入ってるのねえ。
あの程度で彼氏に喜んでもらえるの?
身のほど知らずじゃない?
彼女に視線を向ける人などこの中にはいない。しかし、どこからともなくそんな言葉を投げかけられているような気がする。
なかなかいいじゃん。あれ。
あれなら彼氏も大喜びよ。
大丈夫。どんどん迫っちゃえ!
同時にそんな言葉もかけられているような気もする。揺れる思い、まるで初めてのデートに臨む前のように大きな期待と深い心配がせめぎあい、自信と不安が交互に顔をだしていた。
「……はあ、早く来て……」
思わず溜息と共に言葉がこぼれる。
もう期待でも不安でもどっちでもいい。
彼女は不慣れなピンヒールが作る足の疲れも感じずにじっと彼を待っていた。
「…………あ」
その時、彼女の視界に人ごみを掻き分けて急いでこちらに向かう彼の姿が入った。彼女は少し背伸びをして笑顔を見せて、彼を向きながら胸の前で手を小さく振った。
彼女の笑顔に引き寄せられるように彼もほっとした笑みを見せて人ごみを掻き分け、縫いながら彼女に近付く。
「…………」
彼の表情がはっきりとわかるくらいに歩み寄ったその時、彼は突如ぴたっと足を止めて彼女を少し遠巻きにして見つめた。
驚いていると言うか面食らっていると言うか。笑顔の中に明かな驚愕が浮かび半ば呆然としているようである。
そんな彼の様子に彼女は訝しげに思ったりもせず、やや緊張気味に笑うとピンヒールを鳴らして彼に駆け寄った。
「遅いよ!」
「あ、うん……ごめん……ね、ねえ……それ……」
彼の視線が下を向く。彼女に遅れた事を申し訳なく思い、目を合わせられない、と言う事ではない。全くの予想外の出来事が眼下で起き、それに釘付けになっているのだ。
彼女は彼の視線を足元に感じつつ、ほんのり頬を赤く染めて僅かにうつむいた。
「…………クリスマスプレゼント……私からの、ね……変かなあ……似合って……ない?」
彼の視線と彼女の視線。それが集まるのは彼女の足下だった。
今日の彼女の装い。黒のハーフコートに白のマフラー。
そして、ミニスカートの下。膝上まで隠れるニーハイのロングブーツが青白く輝く発光ダイオードのイルミネーションに怪しげに輝いていた。
「う……ううん。とっても……とってもよく似合ってるよ」
彼は嬉しさをかみ殺しているような笑みを見せながらそう言い、そっと彼女と手を繋いだ。
「とりあえず……どこかに……行こうか」
「ううん」
彼女はそっと首を横に振ってすこしためらいがちに上目遣いで彼を見上げた。
「ピンヒールに慣れなくって……脚が疲れちゃった……2人きりでどこか休められる所、ないかな」
「…………」
彼は軽く考えて、と言うか展開に戸惑ってどぎまぎして少し黙り込んでこくっと唾を一つ飲み込んで彼女を見た。
「……僕の家でよければ……来る?」
「……うん」
2人は彼の家に向かって歩き出した。彼女は彼の少々空回りな調子の会話と相対しながら若干汗ばむ手のぬくもりを感じながらいっしょに歩いていた。
ピンヒールのニーハイロングブーツ。慣れない踵や膝頭まで続く革の感触。普段経験しない違和感にリズムよく闊歩をすると言う風には行かない。
とにかく転ばないよう小股に早めのテンポで歩いていた。
だがしかし、それで彼がせかせかと先を行くような事はない。
手を繋いでいる事もあるし、慣れないニーハイロングブーツを履いてきた彼女への気遣いもあるがそれ以上に。彼の歩様もなんだかおかしかったのだ。
どうも歩き難そうと言うか、腰を少し引きながらと言うか。足下は普通のスニーカーで歩きやすいはずなのだが。
(……すっごく喜んでるんだ……よかった)
そんな彼の歩行と彼の下半身を見て彼女はほっと安堵の息をつき、ふうっと初めて緊張の解けた笑みを浮かべた。
彼のデニムに包まれた下半身。その1ヶ所で厚手の素材にも関わらず、はっきりと下で固い何かが立ち上がっているとわかるのだった。
彼女はくすっと笑い、彼の言葉に何度かうなづきながら自分の足下に目をやった。
ブーツの足首や横脛に皺が寄ったりぴんと張ったり。黒革のロングブーツが様々にその表情を変えて脚を飾り立てている。
彼女はこの脚が自分の脚でないようにすら感じた。
(ブーツって……不思議)
彼女はそう思って彼の横顔を見上げた。
横顔を見た瞬間、どきっと胸が高鳴った。
まだ動揺の色が浮かんでいるが、いつもは少し頼りない、むしろ可愛いと言う表現が合いそうなその顔に何かを決然とした、きっぱりとした男の表情がはっきりと見えた。
(……こんなの前にも見たな……)
その横顔。彼女には見覚えがあった。
そう、初めてロングブーツを履いてホテルに向かう、あの時の顔だった。
途中でコンビニに寄り、飲む物食べる物を買う。
その道すがらも彼は彼女を見て、一緒にちらりちらりと彼女の足下を見る。
今彼は彼女と彼女の足下に釘付け。彼女はそれだけでも嬉しく思えた。彼を一人占めできていると。
コンビニを出て彼の部屋に向かう。
こっこっ、と徐々に慣れて来たらしく、まだ小股であるがリズミカルに踵を鳴らせるようになった。
聞こえるのはその少し高い足音だけ。雑踏の街中で空回り気味の会話を続けていた彼は街灯の明かりのみが照らす住宅街に入ると口数が目に見えて減ってきた。
街灯の白い光を照り返し、蠢きながらその艶っぽさを変化させるロングブーツの声を堪能しているようにも見える。
ふう、と彼の少し荒めな息遣いが聞こえ、きゅっと彼女の手を握る手に力が入った。
彼の部屋の前に到着。無機質なドアの前に立つ彼は息を整えようとするように一つ息を大きく吐く。
「あ」
デニムのポケットから鍵を取り出した瞬間、ぽろっとリップクリームが一緒にポケットから零れ落ちた。
「いいよ」
拾おうとした彼だがそれを制して彼女がしゃがみ込んで拾った。
ぎゅむっと革同士の擦れる音。同時に足首と膝裏に皺が寄り、膝から脛にかけてと脹脛の革がぴんと張ってアパートの廊下を照らす蛍光灯の光を直線的に弾き返す。
彼は一瞬、そんな彼女のロングブーツに手が伸びかけた。しかし、その手は少々強引に彼女が拾ったリップクリームに向かった。
「あ、ありがとう……ね、ねえ、そのままで」
「え?」
彼の言葉にしゃがんだままで彼女は彼を見上げた。彼は頬を軽く赤く染めると彼女から顔を背けて、視線だけで彼女を見た。
「もう少しそのまましゃがんでいてくれないかな……その……もっと見ていたい」
「……いや」
彼女も軽く頬を赤く染めてくすっと笑うとゆっくりと立ちあがる。ブーツの皺が伸びて行き、ぎちぎちと再び擦れる音が響く。
「2人きりにならなきゃ……いや。あなただけに私のブーツをよく見てもらいたいから……」
△次に進む ▽前に戻る ▽入口に戻る