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そしてまた週末が来て、彼女といつものように会ってデートをする事になった。
いつもの時間にいつもの場所で。
メールにはそう書いてある。その文面にはいつもの彼女の姿が浮かんでいるように感じ、いつもの彼女と会う週末を予感させた。
週末。梅雨ももうすぐ終わりだと言うのにざあざあと雨が結構強く降っていた。
僕はいつも通りの待ち合わせ場所にいつも通り、待ち合わせ時間の十五分前に来て彼女を待った。
「お待たせ、待った?」
しばらくしていつもの調子でいつものように背後から僕を呼ぶ彼女の声。僕はほっと心が軽くなる感覚を覚えながら振り返った。
「ううん。今来た……!」
彼女を見た瞬間、僕は我が目を疑い、言葉を忘れてしまった。
「……どうしたの……それ……?」
そして、途切れた言葉の続きがそれだった。僕はその目を彼女の姿、特に足下に集中させた。
彼女はノースリーブのニットに膝上のスカートと彼女にしては今日もちょっと冒険したと言う感じの服装。
しかし、それ以上の彼女の冒険があった。それは足下のロングブーツ。
6月も末だと言うのに、他には誰も履いていないと言うのに、両脚には黒く人工的な輝きを湛える、ヒールが太めでスクエアトゥの黒革のロングブーツが履かれていた。
飾り気のない、彼女らしいベルトもリボンも編み上げもない、オーソドックスでシンプルな形のロングブーツだが、この季節、存在だけで目立つ。
彼女はちらっと自分の足下をちらりと見て少しはにかんで頷いた。
「うん……雨が降ってるし……ちょっと寒いかなって……」
雪が舞う真冬でも履いてないのに?
その理由にはこれ以上なく説得力がなかった。僕は思わずくすっと小さく笑ってしまった。
「……変……かなあ……」
彼女のはにかみには少しだけ羞恥が入っているように見える。
そりゃ、ノースリーブにスカート、ロングブーツと上半身と下半身とで空中分解しているようなファッション。こんなファッションを勧める雑誌などなく、あまり見た事ないコーディネート。
ファッションを意識し出した彼女には恥ずかしいと感じる事だろう。
しかし、それを乗り越えてきてまで履いてきた彼女。僕はそれに報いようとするようににっこりと笑い、彼女のノースリーブで露になった肩に手を置いた。
「ううん。とっても似合ってる……ありがとう」
なぜか自然と感謝の言葉が口をついた。すると、彼女は満面の笑みを浮かべて僕を見上げた。
「……本当? 脚、太いでしょ……?」
「全然。むしろ、細過ぎる脚にロングブーツは似合わないと思うよ。ちょうどいいんじゃない?」
「……うん!」
今まで見てきた笑顔の中で一番の笑顔。いや、付き合い出した時は見ていたような気がする、満点の笑顔。
それを見た僕はお返しとこれ以上ない笑顔を返した。
いつもと明らかに違う彼女。そんな彼女とのデートはいつも通りなのだが、どこかいつも通りではなかった。
例えば映画。洋画好きな彼女。字幕の洋画を見る機会が多く、いつもなら銀幕に集中するのだが今日はちらりちらりと映画館の闇に沈むロングブーツが気になって仕方がない。時折、きらり、と映画の光に僅かに輝き、その形が一瞬浮かびあがるのを見ると映画を見る以上にドキドキしてしまう。
例えばショッピング。洋服を選んだり、小物を見たりする彼女。しかし、彼女が持っている商品よりも足下のロングブーツが気になる。商品を見る事に夢中で僕に視線が向いていない間、極力彼女の足下を見続けた。
例えば普通に道を歩く。この季節にロングブーツ。ただでさえ目立つその足下を道行く人々はちらりちらりと見ていく。その視線は隣にいる僕ですら感じられるほど。彼女も感じていない訳はないと思うが、彼女はにこにこ笑っていつも以上に楽しそうに僕と手をつないで歩いていた。
先週、突然ファッションを変えてきた時はそんなに向けられてないよと言いたいくらいに周りの視線を以上に気にしていたのに。今日は足下への視線を楽しんでいるようにすら見えた。
そう、彼女は明らかに先週と違う。いや、変わった。季節外れのロングブーツを履く荒療治で何かが変わった。
その変化を僕は当然受け入れていた。それは彼女にとっても、そして僕にとっても歓迎すべき変化なのだから。
そんないつもと違ういつも通りのデートが進んで夜になった。早い時は夜になった途端に解散となるのだが、
「今日はこの後……大丈夫?」
「うん」
ディナーと軽くお酒を飲む事に誘った。
少しでも彼女と長くいたい。彼女のロングブーツを見たい。
そんな思いが僕が彼女を誘わせていた。
入った場所は馴染みの料理の美味しい居酒屋。そこで食事をし、緩いお酒を口にしつつ、僕はまたちらりちらりと彼女の足下を見た。
ロングブーツを履く事に慣れていないのか、あるいはさすがに暑くて蒸れたのか、スクエアトゥの甲が時折もぞもぞ動いている。その旅に黒革がうごめき、まるで別の生物がゆっくり呼吸しているかのように見えた。
「……そんなに気になる?」
軽く心地のいい酔いを感じ出す頃、彼女がにっこり笑って訊いて来た。
「え、あ……うん……だって……すっごく似合っているし、綺麗だし……」
僕は少しどぎまぎしつつそう答えた。何か気の効いた修飾をしようかとも思ったが、思った事をそのまま言った。すると彼女はまた嬉しそうににっこりと笑った。
「ありがとう……ロングブーツ……そんなに好きだったの?」
「……うん」
今の僕は恐ろしいほどに素直だった。彼女の前では飾り立てずにそのままで答えていた。
彼女はにっこりと笑ったまま、浅い溜息をついた。
「……そう。気付かなくて……ごめんね」
「いや。でも……嫌いだったんだろ? ロングブーツ。それなのにわざわざ、こんな時期に履かせちゃって……わがままみたいに言って……」
「……ううん。いいの……ロングブーツは嫌いじゃなくて……怖かったの。履くのが」
そう言いながらまた浅い溜息をつく。そして、すっと烏龍茶を飲んでふと、影のある表情を見せた。
「高校の時……好きな男の子がいたの……それでね、友達何人かとその人とで一緒になって遊ぶ事があったんだ……私、目立っちゃおって思ってこのロングブーツを履いて行ったの……そうしたら……」
一瞬、彼女の顔に辛さが浮かぶ。
「……『足太いのに無理しちゃって』ってその人が言ったの。私……ショックでそれからロングブーツは履いちゃいけないって思うようになって……」
「……よかったよ」
「え?」
僕がぽつりとこぼした言葉に彼女がはっと驚いたような顔を見せる。僕は彼女に笑顔を見せてそっと、彼女の手に僕の手を重ねた。
「そんな酷いヤツに君をこれ以上傷付けさせなくて……それよりも……」
僕はちらっと彼女のロングブーツの脚を見た。
「この綺麗なブーツの脚……ブーツを履いた君を僕だけが独り占めできる……これ以上いい事は僕にはないよ」
「……ありがとう。私も……本当に好きな人にだけ見せられて……嬉しい」
彼女はかくっと一度首を下げ、また顔を上げてにっこり笑った。
細くなった目が僅かに潤んでいるように僕は見えた。
居酒屋を出た僕と彼女。雨は一時の強さはなくしとしとと降っている。僕がさす傘に彼女が入り、きゅっと僕の腕を掴んで雨の道を歩いた。
水たまりや濡れ方の酷い道を歩く度に彼女のロンブブーツの踵から飛沫が上がり、その黒革の優美なシルエットを濡らす。そして、夜のネオンや街灯がロングブーツの艶っぽい黒革を輝かせ、優美なシルエットを浮かべさせていた。
僕は彼女が脚を前に出して歩く度にどきっと胸がなり、ズボンの下が硬直していく感覚を覚えた。
「……ねえ、こっち通らない?」
「え?」
いつも行く道。その途中でいつもは通らない、裏道に続く道を僕は指差した。
彼女は一瞬、怪訝な面持ちをしたが、一瞬の間を置いて、
「……うん」
頷いた。
その道は駅に通じる裏道の入口。ただし、その途中には――ラブホテル街があった。
その道を通って駅に向かえば実は近道になる事を僕は知っていた。
だからこのままラブホテル街を何もなく突っ切って駅に行く事も可能だし「早く電車に乗る為に近道選んだ」とこの道を選んだ理由も言える。
しかし、僕がこっちの道を通ろうと言ったのはそんな事じゃない。
彼女ともっと一緒にいたい。彼女のロングブーツ姿をもっとそばで見たい。彼女のロングブーツに包まれた脚を触りたい。
そんな思いに突き動かされていた。その思いが僕をこの道に彼女を誘わせていた。
「…………」
「…………」
騒がしい表通りとは違ってまるで死んだような裏道。明かりと言えば街灯と表通りから漏れてくるネオンくらい。
聞こえる音は表通りからこぼれてくる音とあの、独特のロングブーツのヒールがアスファルトを叩く音だけ。
その音、照度の足りない明かりで浮かぶ姿。それだけでも僕のズボンは突き抜けるぐらいに膨らんでいた。
僕は音を聞こうとしたのか、表通りとは違って殆どしゃべる事はなく、また彼女も静かに、黙って歩いていた。
何となく、僕と彼女の間に緊張感が走る。その中に響くブーツの足音。それを聞きながら黙る彼女の横顔を見ると彼女が酷くオトナっぽく、そして魅力的に見える。
そうしている間に不意に辺りがネオン独特の色付いたぼわん、とした光に包まれた。
見るとそこはラブホテル街。
このまま何も言えず突っ切れば駅まですぐ。
しかし、そうしたらもう今日は彼女とお別れ。このロングブーツを履いた彼女の脚ともお別れ。
次はいつ? もう秋か冬か。今日はまだ雨で梅雨寒と言う苦しい理由付けができたが、これからの真夏の中ではそんな事はできないだろう。
今しかない。今だけが彼女のロングブーツ姿。今なんとかしないと。
さかさかとラブホテル街の中を黙って突き進む。
でも、ここで立ち止まっていいのか? 嫌われる可能性もあるぞ。今まで行こう、なんて誘った事もない。それどころか近付こうともしなかった。彼女がここに入るような関係を僕に望んでいるのかわからないんだぞ。
しかし、このまま別れるのは――嫌だ。
今ある彼女の脚、そこにあるロングブーツ。それを本当に僕の物にするには今しかないんだ。今、動かないといけないんだ――。
結果、嫌われようが、喧嘩になろうが、後悔はその時だけ。覚悟の上だ。もし、今僕が決めなければ多分、次の秋まで、いや、一生後悔するかもしれない。
僕は一番新しく綺麗なホテルの前でふと、立ち止まった。
彼女も僕に合わせてぴたりと止まる。顔は濡れた道やロングブーツのつま先を見るように心持下に向いて、僕やホテルを一切見ていない。
「……休んで……いかない?」
彼女は何も言わず、固まっている。
怒ったのかな?
一瞬、ぐらつくような不安を感じたのと同時、彼女はこくん、と首を縦に振った。
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