13 記憶
2人は警察署に戻った。
ビラ配りの解散から少々時間が経っての帰還に上司は怪しむかと真理子と優華は思った。しかし、上司に報告をすると彼は、
「こう言うビラ配りに時間を掛ける事で犯人に近付く情報が得られるかもしれんからな……お疲れさん」
と咎めるどころか逆に2人を誉めた。
(……よかった、能天気な人で)
真理子は顔には出さなかったが上司のおめでたい性格にほっとした。
上司はそんな2人を見るとちらっと腕時計を見た。
「……まあ、2人とも今日は早く家に帰ればいい。大分疲れているみたいだしな……」
「え?」
ぴくっと2人の肩が同時に震える。上司は身を乗り出すように頬杖を突き、目の前に立つ二人の顔を見た。
「2人とも今日は顔色が悪い。多分疲れからだろうから、美味いもん食って早く寝るんだ。明日も勤務があるからな」
そう言うと上司は悪戯っぽく笑って見せた。二人は愛想笑いのようなあやふやな笑みを見せるのがやっとだった。
「……能天気に見えてしっかり部下を見てるのね……あのおっさん」
2人が勤務をする部屋から女子更衣室に続く廊下を歩きながら真理子がそう言って軽く笑った。
廊下には二人以外に人の姿はなく、真理子の声とブーツの踵の音だけが廊下に響いた。
軽い調子の真理子に対して優華はまださっきまでの事を引き摺っているのかどことなく沈んだ、影のある表情を浮かべて俯いていた。
真理子はさっと表情を引き締めるとそっと優華の顔をのぞきこんだ。
「…………まだ……怒ってる?」
「え? あ、いいえ……」
突然優華は顔を上げ、慌てたように首を左右に振った。そして影のある表情を緩めると、軽く笑って見せた。
「しっかり見てはいますけど……疲れとしか見えてないから……実はよく見ていないのかもなって……」
「それもそうね」
真理子はふふっと苦笑気味の笑みを見せた。しかしすぐに溜息にも似た息を一つ、口からまとめて吐いた。
「でも……普段よく見ていない人でも顔色が悪いってわかるんだから……相当悪いのね、私達」
「はい……あ、でも先輩はなんだか今日は朝から顔色が……」
「そうなの」
真理子は少し困ったような表情を見せてそっと臍の下辺りに手を当てた。
「昨日から始まったのよ。生理」
「えっ!」
別に驚くような事ではないが優華はなぜか大きく驚いた。そんな優華に真理子の方が驚いて見せた。
「そ、そんなに驚く事? 入院するような病気ならともかく、生理なんて定期的にある事だし、これ位で仕事は休めないでしょ?」
「いえ、あの……」
優華はきょろきょろと周囲に人がいないのを確認するように辺りを見渡すとそっと真理子に顔を近付けた。
「もし……もし……あのままレイプされていたら大変な事に……」
「…………」
優華の真剣な表情に真理子はそれほど深刻に考えてなさげな軽い表情で軽く考える素振りを見せた。
「……逆かもよ」
「え?」
「私達にしたら当たり前の事だけど……男にしてみたら未知の現象なのよ、生理って。もし、生理の血を見たら……逆に退いちゃって何もできないし、しないんじゃない?」
ふっと一瞬真理子の横顔が大人の、怪しげな魅力を醸し出す女の物になった。そしてすぐにいつもの先輩、真理子の表情になるとちらっと優華の戸惑ったような、固まった表情に微笑みかけた。
「男にベットまで誘われても生理が始まったって言ったら……大体諦めちゃうしね。そう言うもんよ、男って」
「……はい」
経験豊富な真理子の言葉に相当な重みを感じた優華は小さな声でそう返事をするしかなかった。だが、優華は余裕のある真理子の顔を見ながら心の中で呟いた。
(あいつらは……そんな常識が通じるような男では……)
そう思った瞬間、優華はなんとなく真理子の顔を見るのが辛くなった。そんな辛さから逃れるようにそっと更衣室のすぐそば、廊下の突き当たりにある窓を見た。すると優華の足がふと止まった。
「? どうしたの?」
更衣室の前まで来て突然歩くのを止めた優華を真理子は訝しげに見て彼女が見ている窓の方を見た。
窓から見える景色は警察署の裏側に広がる雑居ビル群だった。そしてその中につい数十分前まで2人がいた廃ビルが建っていた。その廃ビルは3階建ての警察署と同じ3階建ての作りで、鉛筆のように細長いビルだった。
優華は窓からそのビルをじっと見つめ、何かを考えているようだった。
「警邏であそこに行く度、着替えにここに来る度に……今日の事をこれからずっと思い出すんでしょうか……」
優華はぽつりとそう呟いた。その横顔には明かな憂鬱が浮かび、口調は弱気で軽く震えていた。
真理子はそんな優華を見つめ続けた。真理子の視線を感じながら優華はふと、一旦ビルから目を離すようにうつむき、再び顔を上げるとまたビルを見つめた。
「……こんな警察署のそばに……先輩が酷い目にあった現場があるなんて……私の現場は山だから遠いからまだいいですけど……」
「あいつら、何考えてこんな警察署のそばにあたし達を監禁したかしら……一歩間違えれば逮捕されかねないような……」
真理子はビルを見ながら考えた。しばらく石化したように動かずに考えているとはたと、一つの答えが見つかった。
「ひょっとしたらあたし達をあいつらに繋ぎ止めさせるためにしたのかも。優華が言うようにいつでも忘れさせないように」
そこまで言うと真理子はそっと優華の肩に手をやって続けた。
「警察署のそばの現場、デジカメ、携帯メール……ありとあらゆる手段であたし達を縛りつける……あいつらにあたしや優華は何もしていないのに……不条理ね……一体どう言うつもりなのかしら」
「……あの」
その時、ふと優華が何かを思い出したのか、短く言葉を口から吐き出した。
「何?」
「前田って人、あの中にいましたね」
「ああ、リーダー格の」
「あの人がよく『私が婦人警官』だからこんな事をするって……」
優華の言葉に真理子は軽く考え込んだ。そして苦しそうに一つ、溜息をついた。
「この制服を着ていれば別に誰でもいいって訳……なんで……そんなに婦人警官に執着するの……」
真理子がそう言ったきり、2人は何も言わずに窓の外の廃ビルを見つめ続けた。
冬特有の柔らかく角度のない、昼の陽射しが黒ずんだ廃ビルの壁を照らし、長い影を作っていた。
しばらくして、優華は更衣室で着替えを終えて警察署を出ると、そこから10分程の所にある警察女子寮の一室に帰った。
バタン。
ドアを閉め、鍵を掛け、ハンプスを脱いで部屋に入ると郵便受けに入っていたダイレクトメールを手にし、さっさっと見てすぐにゴミ箱に放り込んだ。そして肩から下げたショルダーバックを床にぽんと無造作に置き、コートを脱いでハンガーに掛けるとそのままベッドの上に倒れ込んだ。
「……疲れた…………」
ベッドにうつ伏せに寝転がった優華は思わずそんな言葉を吐いた。
仕事に疲れて帰って来た時にはほとんど口にする言葉だが、今日の言葉には普段の言葉とは違う調子があった。
犯罪者に拘束された上に尊敬する先輩の真理子の本性を開かされる様を見せつけられ、さらに排尿まで。
十数年掛けてゆっくりと経験するような事が洪水のように1時間ほどで優華に襲い掛かってきたのだ。一日分ではなく十数年分の疲れが一気にのしかかったような状態を感じていた。
「……忘れよう」
優華はゆっくりと目を閉じて今日の事を忘れようとした。しかし、そんな忘れようとする優華を嘲るように真理子が今日受けた仕打ちを勝手に映画のフィルムのように彼女の頭の中を流れた。
(……なんで私……止めなかったんだろう……)
何度も何度も真理子の痴態が流れ、彼女悲鳴のような声が響きふとそんな事を思った。
真理子は優華に男達の手が伸びようとした時、「止めなさい!」と声を上げて止めようとした。それだけではなく、助けようと行動も起こした。
しかし、逆に真理子へ男達が手を伸ばした時、優華は止めろと声を上げる事すらできなかった。
(……なんで……私は警察官なのに……しかも先輩があんな目に遭っているのに……)
ごちゃごちゃした頭の中で優華はその理由を探した。
レイプされた時の写真を握られているから、自分が動けば真理子がさらに酷い目に遭うかもしれなかったから、自分に振りかかってくるかもしれないから……。
だが、何度も何度もあの時のシーンが回想されると一つの理由が浮かび上がってきた。
止めたくなかったから止めなかった。
(……そんな事ある訳ない……私が止めたくないなんて……)
自分の中に浮かんで来た仮説を一笑に伏すように鼻から息を抜き、あっさりと否定した。だが、その仮説が彼女の頭の中から消える事はなく、まるで何かに気付けと言わんばかりに残った。
そしてまた今日廃ビルであった事が再び流れ始めた。
(……あっ)
そしてある事に気付いた。真理子が平手打ちを食らった時、拷問に近い尋問を受けている時、無理矢理唇を奪われた時、全ての瞬間、優華は目を背けずじっとその様子を見ていたのだ。
真理子が受ける仕打ちを見ていた。真理子が、尊敬する先輩が苦痛に苦しみ、叫びながら涙を流す様子を。それは思わず見入ってしまったからじゃないのか。本当は真理子が辱めを受ける様子が楽しく、興奮しながら……
「いやああああっ!」
突然、全てを断ち切るように優華は叫び、ベッドのシーツを右手でぎゅっと掴むとベッドの隅に畳んである毛布を左手で掴んでばさっと自分の頭に被せた。
そして両目をキュッと閉じ、毛布で出来た闇の中にさらに闇を作って自分の心臓の音を聞きながら震えるのだった。
先輩が恥ずかしい目に遭っているのにそれを楽しみながら見ている。
(そんな訳ない……楽しんでなんて……!)
楽しむために先輩が酷い目に遭っているのを止めなかった。実際、真理子の様子を見ながら自分は嫌悪感を感じていなかった。
(……私は……そんな……)
人が苦しむ所を見て喜びを得る。それは真理子のような変態である。
(違う……違う! 私は変態じゃない! 普通の……)
苦しんでいる被害者を前に止めもしない。それは婦人警官としては最低の行動だ。犯罪に荷担した上にそんな行動をとるなんて真理子以上に最低の……
(違う…………違う! 仕方なかったのよ! 私は……私はああっ!)