貴方へのロングブーツ
−1−
「ん……ん……んふぅ……」
ワンルームタイプのマンションの玄関。
ドアが閉められ狭い空間が一層に狭く感じられる中、一組の男女が違いの唇を貪るように重ね合わせていた。
まるで今生の別れが訪れたかのように長く、そして、濃く互いを求め合っていた。
「ん……はあ……」
そっと離れる。彼女は頬を赤く染め、俯きながら上目遣いで彼を見た。
「……じゃあね……」
「ああ……またメールするよ」
彼は優しく彼女にそう言い、彼女を見ながらドアを開けてゆっくりと部屋を出た。彼女はそれを追い、サンダルを適当に足に入れてずりずりと外に飛び出た。
そしてマンションの廊下をエレベーターに向かって彼を見送り、彼がこちらを見るたびに手を振った。
彼がエレベーターに消える。ここで彼女はふっと浅い溜息のような息を吐いて部屋に戻った。
「……はあ」
今度は深い溜息。本当はいつまでもずっといたい彼。しかし、必ず訪れる別れ。永遠の別れ、と言う訳でもないのに重苦しいほどの辛さが彼女の心を締め付けられていた。
彼女はサンダルを適当に脱ぎ捨ててフローリングの部屋に入る。
目に付くのはシーツが乱れたままのベッド、ティッシュが乱雑に押し込められたゴミ箱。
そして、ベッドの脇に脱ぎ捨てられて腰を抜かしたようにへたり込んでいる黒革のロングブーツ。
そっとロングブーツの片方を持つ。
「……バイト代入ったら新しいの買っちゃおうかな」
初めてふっと彼女の顔に笑顔が浮かんだ。
デートの終わりとお別れの時がイコールだった状態から一歩進み、デートの後で彼とこうして幸せな時を過ごせるようになったのもブーツのお陰。彼がこのブーツを履いた姿を見て抑えきれずに、一気に壁を突き抜けて一皮も剥けてくれたから。
だらんと下がったブーツの黒革。そこには足首の皺の他に白い筋のような跡などもある。中には彼女の汗染み。彼と彼女の繋がりを全て見て、その革で受けとめてきた証拠。
「でも、これがお気に入りみたいだし……どうしようかなあ……」
ふふっと小さく笑い、ロングブーツの左右を揃えるとブーツキーパーを入れてそっとクローゼットの中に入れた。
「さてと……」
彼女はいつものルーティンワークのようにテレビのリモコンを手にしてテレビをつけた。
ぽっと画面に浮かんだ映像は朝の情報番組の天気予報。若い女性の気象予報士が寒空の屋外から今日は晴れる事をお知らせしていた。
(いいブーツ……あんなの欲しいなあ)
ぱっと彼女の全身が映し出された瞬間、その足下に目が行った。朝の日差しを浴びてぬめりでもあるかのように輝く濃いブラウンのロングブーツ。朝の人気情報番組に出るような物だからきっと本革のいい物なのだろう。
(クリスマスにプレゼントとかされないかな)
くすっと笑った瞬間、はたとある事に気づいた。
(……このテレビを彼が見たら……やっぱりこの人を好きになるのかな)
ブーツを履いた彼女が好き、彼はそう言っている。でも、本当にそうなのか。
本当はただブーツを履いた女が好きなんじゃないだろうか。いや、ブーツさえ履いていれば女でもなんでもいいんじゃないだろうか。
ブーツを初めて履いて見せたのが6月で、ブーツを履いている人が殆どいなかったから彼はのめり込んでくれただけで、彼女じゃなくても別によかったのじゃないか。
今、季節は秋から冬。テレビを捻れば彼女よりも綺麗で可愛いアイドルが今持っているロングブーツより遥かに良質で洗練されたブーツを履いて画面に登場してくる。
いや、それよりも街に出ればロングブーツを履いた女性など普通にいる。そう言えばデートで街を一緒に歩いているとなんとなく彼の視線があちこちに動いているような気もする。
(……そ、そんな事ない……)
あの人に限って。
そう続けようとしたがなぜか続いて言葉が浮かばない。
何せ彼はブーツが好きで、それに火がついて彼女とこうなっている訳で、他にブーツを履いている女がいればそっちに惹かれていってしまう。
そんな事は絶対にない、とは強い確信を持って言う事はできない。
本当に私が好きなの? 私よりもロングブーツが好きなんじゃないの?
(……………………)
彼女はそっと立ちあがって再びクローゼットをあけた。
そこにはブーツキーパーでその柳眉な形を保っているロングブーツが1足、立っている。
「……どうなんだろう……」
窓から差し込む朝日を浴びてきらりと白い筋を浮かべながら輝くロングブーツを見つめながらぽつりと彼女がこぼした。
数日後。
「あ、ごめん」
木枯しが枯葉を舞い上げる街角。いつもの場所目掛けて彼が駆けていた。
「うん」
彼女は少しはにかんだ様子で上目遣いに彼を見て小さく、手を振った。
いつになく、彼女はどきどきと胸を高鳴らせている。それは物凄く大胆な格好をしているから、ではなくその逆。
いつもよりも地味。ちょうどロングブーツを彼が好きだと知る前の彼女のような格好だった。
少しだぶついたチノパンにハイネックのセーター。ロングブーツなんか履かないぞ、と全身から雰囲気を漂わせているような出で立ち。
もし、少しでも残念そうな顔をしたら私じゃなくてロングブーツを履く女としか見ていない。
そんな彼女の精一杯の確認作業だった。
彼は彼女に駆け寄るとその出で立ちを見るような事もなく、にこっと彼女に笑いかけた。
「今日はどこに行く? なんか面白い映画とかしてたっけ?」
「え……」
彼って私をこんな風に見てたっけ? 彼女はそう思った。もっと私の足下や鞄を見ていたような気がしていたのだけど。少なくともロングブーツで一つを越えたあの夜から数ヶ月は。
でも、最初に出会って付き合い出した時はこんな感じだったかも……私に笑顔を向けて……。
「……どうした?」
彼が訝しげに彼女を見る。彼女はふるふると首を横に振り、口を半月状に開いて笑った。
「ううん、なんでも。なんでもない……あ、ねえねえ。お買物……付き合ってくれない?」
「ああ、いいよ……何買うの?」
「んー……適当! その辺ぶらぶらしよう」
二人は風が吹きぬける街の中を歩いた。
その間、彼女は間断なく彼に話し掛け続けた。昨日のテレビの事、最近読んだ小説の事、芸能人の結婚、社会問題に今日のお天気……。
とにかく、彼の視線を自分に向けるようにさせていた。
それでももし、ちらちらと行き交うブーツの女性に視線が向くのであれば。
彼への二次試験と言った所だった。
「あ、そうだっけ? へー、最近テレビとか見ないから知らなかったなー」
彼女の思惑通り、彼はずっと彼女を見てお喋りをしていた。時折考える時に空を見上げる程度でその視線はずっと彼女に向いていた。
その話題の事を知らずについて行けなさそうでもとにかく彼女を見て話した。
「え? なんで? いつもニュースとか見てるんでしょ?」
「うん、でも、今はバイトを多めに入れてるから……」
「ふ〜ん……」
ここで初めて、彼が考え事でもないのに視線を彼女から逸らした。彼女も慌ててその視線の先を見た。
そこは気が早いクリスマスの装いのショーウィンドウだった。
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