宴のロンググローブ
(もう。弛んでますわ)
和洋折衷の広々とした館。その中を伸びる廊下を早足で歩く女性が一人、いや、女性と言っても淑女と言うにはまだ幼い女の子が一人。
その表情は憤懣やる方ない面持ち。背中に垂れる二本の三つ編みと冬のセーラー服の大きな襟、さざなみのようにひだが重なるスカートを大きく揺らしながら歩いていた。
(私の手袋を全て洗ってしまってまだ乾いていないなんて……婆やも衰えましたわ……お母様に言ってきつく叱ってもらわないと……)
普段はしとやかに歩く廊下も彼女にしてはやや大股気味に進み、真っ直ぐ目的の部屋へと向かっていた。
(……婆やのお陰で気分が損なわれます……せっかくの雪見の宴と言うのに……急いで冬美お姉さまのお部屋に……)
何枚かのドアを通り過ぎ、一枚のドアの前で立ち止まった。そこは彼女、春奈の姉、冬美の部屋のドアだった。
春奈はドアを軽く、ノックした。
「お姉さま、入ります」
中にそう声をかけてドアを開ける。中には誰もいない。しかし、春奈はそれを不思議に思ったりはしなかった。
(えっと……確か手袋は……箪笥の上から二番目とお姉さま、仰ってたから……)
手袋がないのなら私のを貸してあげます、そう冬美に言われて部屋に入る事を事前に許されていた。従ってこの部屋に誰もいないのは知っていたが、ノックをして、入る前に声をかけると幼い頃から教え込まれた彼女の習慣だった。
春奈は部屋の片隅にある洋風の箪笥に歩み寄り、その上から二段目をゆっくりと引き開けた。
中には慄然と手袋が畳まれて置かれている。崩すのを憚られるほどきちんと並んでいた。
(……さすがお姉さま……見習わなければ……黒の手袋は……)
そんな箪笥の中に感嘆の息を吐きつつ、春奈は一つ一つを丁寧にどかして目的の黒の手袋を探した。
(……あった……えっ?)
目当てのカシミアでできた手袋を見つけたと同時、さらにその奥に変わった物を見つけた。
手袋と手袋の合間から姿を見せる黒色のそれ。
毛糸や毛皮で作られている手袋とは明らかに違う素材のように見えるそれ。
窓から差し込む雪明りにうっすらと自己の存在を誇示するように輝くそれ――。
(何……?)
春奈がそれに手を伸ばす。しかし、引き出しに手を入れようとしたその時、はっと手が止まった。
(い、いけません……お姉さまとはいえ余計な事を詮索するのは……)
ゆっくりと手を引き出しから離し、どかした手袋を取ろうとする。しかし、なぜかそちらへ手が動かない。
ふむ、と春奈は一つため息をついた。
(……こ、これは手袋をお片づけするために……あれのお陰できっちりと入らなくなるでしょうから……整理しないと……)
自分にそう理由を言って自分で納得させて自分で一つ頷いた。そして底の方にある手袋をそっと掻き分けてその隙間から見える黒色の何かを手にして取り出した。
「……こ、これは……!」
するするっと他の手袋と擦れ合いながらその姿を見せたそれ。他の手袋とは違って靴下と言ってもおかしくないほどに長かった。
そして。何より彼女の目を奪ったのはその長さよりも手袋の素材。
毛皮のように毛羽立ってなく、布地のように織目もなく。差し込む光を吸い込み、怪しくぼんやりと白くそれを吐き出している。
「なんでこんな物が……」
春奈が持っているその手袋。
嵌めれば肘までありそうな黒のロンググローブ。
なめした革でできた、柔らかくもやや芯を感じるロンググローブ。
怪しげに光を蓄えたロンググローブ……
(これをお姉さまが……そんな訳ない……お姉さまはこんな物をつけたりはしない……)
春奈にそのロンググローブがなぜかひどく淫らでいやらしく、ふしだらな物に見えた。
彼女はばっと慌てて開けた箪笥に隠すように押し付けた。
しかし、少し間を置いて静かに、ゆっくりと引き上げて腕を伸ばしてできる限り顔から離した位置にロンググローブをかざし、春奈はそれを覗くようにちらりちらりと見ていた。
(でも……あるということは誰か嵌めているって事……)
ちらりちらりと視線を流す。
春奈の手から垂れ落ちているようにたらんと垂れているロンググローブ。彼女は視線を僅かに逸らし、再びちらりと見る。
(お姉さまの箪笥にあったから……やっぱりお姉さま……?)
手の中の革のロンググローブ一双。布にはないひんやりとした手触りだが徐々に春奈の体温が移りほんのりと温もりを帯びていった。
(……いや、お姉さまがこんなのするわけが……)
春奈が目を背けて首を小さく左右に振った。
(……でも……)
逸らした頭の中に姉の冬美の姿が浮かんだ。
雪のように白い肌、冬の夜空のように澄んだ黒色の髪。そんな彼女の白い腕にぴたっと吸い付き、肘まで黒く染める黒革のロンググローブ。
(お姉さまに……よく……お似合いに……なるでしょうね……)
ちらりと視線を流して再びロンググローブを見た。
春奈の温もりを移したロンググローブが彼女の手の中からたらんと垂れ下がって怪しくも美しく黒光りしている。
(……私も……似合う……でしょうか……)
その黒光りが春奈を誘っているように見えた。
この美しい輝きを、艶を貴女の腕にも。
怖いことはない、ただこの口から腕を入れるだけ――。
(な、何を言ってるの……わ、私はこのような物に興味などありません……それにこれはお姉さまの物……)
また春奈は顔を背けてロンググローブを箪笥に収めようとした。
ロンググローブの指先が箪笥の引き出しに少しだけ沈む。しかし、それ以上は沈まなかった。
(………………)
春奈がロンググローブを箪笥にしまう手を止めていた。
本当にいいの? 次に手にする機会はいつになるかわからないよ。
ロンググローブがそんな事をささやいたような気がしたからだった。
(……い、一度くらい……私が嵌めてみても……)
春奈の心が揺れる。
(だ、だめよ……お姉さまに黙って勝手にお姉さまの物を使うなんて……)
誘惑を押し切るようにロンググローブを引き出しへ押し込もうとする。しかし、またその手が途中で止まった。
(でも……使うんじゃ……ないのです……よね……嵌めてみるだけ……これを嵌めてどこかに行くわけではないのですから……)
徐々に彼女の中で誘惑が支配を強めていく。
誰もいない事はわかっているが、春奈は一度きょろきょろと辺りを見渡した。そしてロンググローブを箪笥の引き出しに置くと左腕を伸ばした。
(………………)
何も言わない、何も思わない、何も考えない。
引き止めるような要素を全て遮断するように完全な沈黙の中で動きを続けた。
延ばした左腕。長袖の紺色のセーラー服が包む腕。
春奈はその先端、手首のホックを外してくるくると肘へと巻くっていった。
(……私もお姉さまみたいな白い肌になりたい……)
セーラー服が捲れて現れたのは春奈の腕。若々しく透き通るような肌だが、姉の冬美と比べると自分の肌が鍬で起こした土のように見える。
そんな想いを振り切ろうとするように春奈は一度首を振った。
左腕の肘までセーラー服が捲くられる。間髪入れずに今度は右腕を同じようにセーラー服から剥き出しにしていった。
腕まくりのセーラー服と言う余り上品と言えそうにない姿になる。
しかし、そんなのを気にする暇もなく、春奈は箪笥のロンググローブを手にした。
こくん、と唾を飲み込む。
だらんと手の中から垂れ下がる黒革。これがこの腕に――。
春奈は一つ頷くとそうっと指先からロンググローブに手を入れていった。
しゅる、しゅるっとなめした革と春奈の腕が擦れ合ってシルクや綿とは違った音を立てる。
「ん……」
今まで嵌めてきたどの手袋よりも嵌めにくい。擦れるが滑りが悪く何度もロンググローブの中で腕が閊えた。
その度に春奈は手をもぞもぞと蠢かせ、革を引っ張って手を進めていく。きゅっと絞れた手首もすぽんと通り抜けさせ、指の一本一本まで革に包み込んでいく。
「………………」
指先まで黒革に包まれるとくいくいと革を引っ張り、指を伸ばしたり曲げたりして肌に黒革をなじませていった。
「……これが……私の手……?」
そっと黒革から手を離す。
中指の先から怪しげに光を吸収して白く滲み出す黒革。一点の隙間もなく春奈の右手が黒革に包み込まれ、見慣れた自分の手から一変して自分のそれとは見えなかった。
ぱっと掌を全開にして見る。
指の外側や親指の下の土手等盛り上がったり外側に向いた部分が白くぼんやりと浮かび、指の股や掌の真ん中と言った部分や黒に沈んでいた。
「…………」
ゆっくりとその手を閉じ、拳を作る。
ぱんと革が張り、白く光はにじみ出る部分が増える。指の関節では行く筋もの皺を刻ませながらぎちぎちっと革が鳴き、反対側の張った革がより肌に密着してロンググローブの中を熱くしていった。
「…………すごい……」
春奈は何度も掌を開いて結んで、黒革が織り成す光と影を見つめた。
そんなショーは手だけではない。
手首でも皺が浮かんでは消え、筋模様のように刻まれている。
そして、手首から肘まですうっと伸びる黒革の川。春奈が腕を動かす度にその光沢を変え、さながらモノクロのシャボン玉の表面のよう。
「…………こんな……風に……」
春奈はロンググローブで包まれた左手でもう片方のロンググローブを手にするといそいそと右手にも嵌め始めた。
左手よりも手早く、すぐにその手が、手首が、腕が黒革に包まれていく。
きゅっとロンググローブの口を引っ張る。
中指の先端から肘まで一体になった黒革がぴんと張り、真っ直ぐな白と黒のコントラストをそこに浮かび上がらせた。
「…………私の手……私の手がこんな……い、いやらしく……」
両手の掌と甲を何度も返しながら見つめ、拳を結んでは開き、手首を曲げる。
両手、両腕に広がる漆黒の革。それに無数の皺と光沢が浮かんでは消え、浮かんでは消えて夜空に瞬き、流れて消える星にも見える。
「……私が……こんな……」
ぴたっと肌に吸い付く革。きゅっとキツくもなく締め付ける革。
両腕の皮膚を拘束しながら上気する春奈のそれによって温もりを増してゆく。
「…………」
黒革に包まれた左手をそっと自分の頬にやる。
同じ生物の皮なのにその感触はいつもの自分の皮とは違う。
うっすらと温もり、ややざらっとし、柔らかな起伏――。
「……はあ……」
頬をゆっくりと左手で撫で回す。胸の高鳴りが今まで感じたことがないほどに強くなっている。
高鳴りだけではない。
ロンググローブに包まれた腕から全身の体温が上がり、体の隅々が火照りはじめた。
「ど……どうしたの……わ……私……」
こんな気持ちは初めて。こんな気分も初めて。
ロンググローブを嵌めただけなのに自分が知らない、自分でもどんな形をしてどんな事をする者かわからない自分が姿を現していた。
今の春奈にそんな自分に抗う術はない。
左手をすうっと自分の唇へ誘わせる。
「ん…………」
人差し指に口づけ。
ぴんと張り、しっとりと潤う唇にほの温かい黒革が重なる。
「んふう……」
ほのかに黒革の芳香が鼻をくすぐる。胸がどきっと大きく高鳴った。
春奈の唇が僅かに割れ、舌が顔を出す。
(いけない……私は……こんなふしだらでは……)
心の片隅でブレーキが踏まれているようだが、全く効果はない。
唇から出た舌の先が黒革に触れ、ぺろっと舐める。
「んん……んふ……ふう……」
春奈はそっと目を閉じ、舌先と唇、そして鼻だけでロンググローブを感じ始めた。
真っ暗な闇の中、唇に触れる黒革の温もりと舌先から伝わるなめした革の刺激、むんと上がって来る革の香り。
「ん……ふう……んふう……はあ……」
ロンググローブの黒革を春奈は貪った。胸は高鳴り続け、全身は火照り自分でもどうなっているのか分からない状態でただ、赴くままに貪った。
「はあ……」
だらんと力なく下がってた右腕が動く。彼女の理性や思考からではなく、勝手に。
黒革に包まれた右手は誰に誘導されるでもなく向かった場所は。
「んいっ!」
セーラー服とアンダーシャツとブラに包まれた乳房だった。
姉のそれに比べてまだまだ起伏の足りないそれだが、感度や機能はもう大人になっていた。
春奈がセーラー服の上から触れた瞬間、硬く凝り固まって立った乳首がブラと軽く擦れて不意の痛みを与えた。
「こん……な……ああ……」
痛みと感じたのはほんの一瞬。
すぐにじわじわと痛みが快感へと変わっていく。
春奈の右手が再び左の乳房をセーラー服の上からまさぐった。
「はうう……んん……はあんっ!」
自分自身を貪り、快楽を求めて春奈の乳房を触る右手が徐々に強くなっていく。すると時折喉の奥から勝手に今まで上げた事のないような声が上がってきた。
「私……こん……ふむううん……」
一瞬戸惑った春奈だがすぐにその口と鼻を黒革の左手が塞いだ。
鼻一杯に広がる革の香り。口一杯に広がる黒革の感触。
「んふう……んんん……んくぅう……」
目を閉じた春奈は舌を出し、黒革の掌をぺろぺろと舐め、黒革の芳香を感じ、そして胸をまさぐった。
もう何がなんだかわからない。わかる必要もない。
自分の知らない春奈がロンググローブによって引き出され、それに自分自身が蹂躙されている。
しかも、自分が心地よいように、快楽をただ求めるように。
「んふうう……んふうう……」
春奈の息が荒くなる。
もう止まらない。春奈の右手が乳房を揉み下し終え、更なる快楽を求めて本能的に動き出した。
ゆっくりとセーラー服からそのスカートの方へと――。
「春奈、まだかかりますの?」
その時、遠くから声が聞こえた。
「……お、お姉さま!」
その声は間違いなくこの部屋の主でこのロンググローブの持ち主、冬美の物だった。
一気に現実に引き戻され、春奈ははっとした。
「わ、私……!」
そして自分が一人で行った痴態にかあっと顔を赤く染めた。しかし、そんな事をしている暇はない。
足音が徐々に大きくなり、確実にこの部屋に近づいてくる
春奈は慌ててロンググローブを脱ぎ始めた。
しゅるしゅるっと名残惜しそうに声を上げて脱がされるロンググローブ。
中に腕を入れられて命を与えられたロンググローブが再びだらんとした抜け殻へと変わっていく。
足音が止まる。それと同時にドアがノックされた。
「入りますよ」
「あ、ちょっと待ってください!」
ノックされた時、春奈はようやくロンググローブを脱いだ頃合だった。丁寧に片付ける余裕はない。
春奈はめくり上げたセーラー服の袖を慌てて元の長袖へと戻した。
「いいのですよ。少しは乱れていても」
その時、そう言いながら冬美がドアを開けた。
「…………」
部屋の中では箪笥が一つ開けっ放し、少々乱れた中身。
傍らには高潮し、両腕を後ろに組んで春奈が立っていた。
冬美は箪笥にちらりと目をやった。
「まあ、お気に召す物がありませんでした?」
「う、うん……えっと……お姉さまの手袋は大人すぎて……その……私には……」
「まあ」
冬美がにっこりと笑う。
「でも春奈もそろそろそう言うのをしないといけませんわ」
「うん……でも、今はいいです……お待たせしてすみません! 行きます!」
逃げるように春奈が駆け出して冬美の脇を通り抜けて廊下に出て行った。
「……春奈たら……」
ふふっとばたばたと出てゆく春奈の後姿を見送る。ホックが外れてだらしなく袖口が開いたセーラー服の腕を見ると思わずくすっと笑った。
「試したみたい……ですね」
箪笥に目をやる。
「……いつまでもセーラー服、と言う訳にもいかないですわ……あれを嵌めてこその当家の女、ですから」
そしてそう言いながら冬美はロンググローブの定位置が空席であるのを確認してそっと箪笥を閉じた。
▽戻る